閉鎖した世界。
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11 , 28
遠くにある人のことを切に思う。
年を負うごとに出会いよりも別れの数の方が増えてくるもので、
今、友達と呼べる人がどれだけ残っているのか、正直わからない。
さよならも言えずに縁を断ち切る時間という隔壁がやはりあり、
それを穿ち、貫くほどの思いなくしては人の絆というのは結ばれないものかも知れない。
その思いとはやはり、
「どうしているのだろう」
そう考えることだろうか。
思い耽ることもなくなってしまうと、その程度なのだろうけれど、
思考の片隅にふっと現れるその郷愁にも似た思いを、
人は友情というのかも知れない。

けれど、思えば思うほど自分の中の脚色がつくばかりで、
真実めいた何かからどうしても遠ざかってしまう。
悪い想像であろうと、いい想像であろうと、
結局は自分にとって都合のいい妄想でしかない。
一番都合の悪い想像とは、時間の隔たりで記憶から消えてしまうということなわけだが、
この都合の悪い想像でさえ、あまりにも誇張した自分の恐怖心の象徴でしかない。
現実はより切実さをもって訪れる気がするのだ。
こんな不完全な出来栄えではないと、そう思う。

もうすぐ、一年だ。
今年もその日を乗り越えなければならない。
去年は自分なりに最大の彩りを添えることでその日を超えた。
今年は一切を飾らぬままに一日を終えることとなるだろう。
約束をしたのを、今でも覚えている。
果たせぬものだと自覚しているから。
だからこそ、届かぬと知りながらも僕はその日を祝って終えよう。
カードの一枚さえ送れぬ自分の立場に苦心しながら、
それでも、笑い、祈りてその日を祝おう。
出来ることなど、それくらいしかないのだから。

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11 , 26
オヤジ殿と二人で庭の冬囲い。
経験0の僕は見習い未満のお手伝い。
普段庭木に触りもしない人間がいきなりやろうったってそうはいかないもんだ。
ロープの締め方を1からレクチャーされたのだけれども、
仕事のノウハウを掴むまで子一時間以上掛かってしまった。
会社のフォーマットを覚えるのとは全く話が違う。
覚えようと頭を働かせても、文字や規格を覚えるのと違って、
空間把握的な要素の強いロープ技法というのは、とかくやってみなけりゃわからない。
何度も何度も失敗して、そうしてようやく身に付いた(ような気がする)。

雪の降る地方においては、この冬囲いは必須作業だ。
園芸業者を呼ぶところもあれば、自力でこなす人もいる。
うちはオヤジ殿が大工から園芸、農業までこなせるスペシャリストなので、
当然、息子としてはそういうのを継承していかなきゃならんらしい。
受け継ぐ、ということに少し感じ入る。
24年、あの人の息子をしてきたわけだけれども、
なんというか、このトシになってようやく息子として一つ役立てたような気がする。
これからもまだまだ多くを受け継いでいかねばならないのだろう。
まだまだ未熟、と深く痛感する。

ハンパに大人になった身からすれば、やはり父母の偉大さは計り知れない。
いずれは乗り越えなければならないわけだが、
まだまだ見上げるほどに偉大な父母だ。
敬愛の心だけは常日頃から持ち抱いている。
早く恩返しをしたいとは思うものの、未だに花は咲かずにいる。
春には花が咲くだろうか。
いいや。
咲かせて見せる、と力強く思うことにしよう。
期待ではなく、明確な意志を持ち、進む。
それが前進の姿勢だ。

11 , 19
朝起きると、カーテンの外は白く輝いていた。
イヤな予感というよりは、寝ぼけた頭でも二秒もせずにそれは確信に変わる。
雪、降ったんだな。
昨日の昼から降りそうな気配はあったものの、
ここまで風景を変えるほどに降るとは思っていなかった。
弘前では14cmも積もったという。
靴底が埋まるだけか、と心配になる。

指先がかじかむ。
ストーブが全力でごうごうと息を吐き続けてくれているけれど、
フローリングの上に、北と東に窓を取ったこの部屋はすぐ熱が逃げる。
冬なんだな、と切に思いながら、窓の外を見ると、
ようやく通り過ぎようとしている雲の合間に冬らしい澄んだ蒼色が見えた。
冬の空気はやはりキレイだと思う。
地表にその分汚いものが溜め込まれるのかも知れないけれど、
それらを雪が覆ってくれるのならば、やはりキレイな空気に満ちているんだと思う。
寒い、という思いもどこか薄れ、ため息は嘆息へ変わった。

それでも、この断絶されたような空気はやはり寂しい。
峠道は雪と氷に閉ざされ、行きたい場所へ行くのも難しい。
去年もその閉塞感に苛まれて、二月になる頃には僕は壊れていた。
どこへでも行けると思っていたのに、どこへも行けず、
近くにあると思いながらも、全く遠く、
つまり、この雪の中では自分の思い通りにはならない、という暗示なのかも知れない。
自然の力は全くもって恐ろしい。あるいは、運命か。
自分の意思だけではどうにもならないことが唐突に起こり、
一夜にして風景を変えてしまうようなことが多々起こる。
本当に本当に、理不尽なことだって、よくあるわけで。

その相反の位置にある奇跡というのは、そうそう起こるものではない。
というより、
奇跡とは、起こるものではなく、起こすものだ。
人の意思、それも尋常ではないだけ強い人の意思が必要なそれは、
やっぱり、そうそう起こせるものはないけれど、
でも、そういうものをどこか望んでいる自分はやはり、
スタートラインを踏み切ったんだなあ、というのは自覚する。

とかく、体調は軒並み回復した。
やれることをやってみせよう。歌も、語りも。
今年が終わってしまう前に。

11 , 13
風邪をこじらせて以来、気管がどうにかなってしまったらしい。
声を出そうとすると咳き込み、会話をするのもおぼつかない。
一応病院に掛かってはみたものの、過敏性の反射と言われて、薬を貰った程度。
喘息だったらイヤだな、と不安に思う。

とかく肺活量が落ちた。
腹筋も気が付けば全くない。
体力作りをするべきなのか、それとも体力回復に努めるべきなのか。
どっちが正しいのかわからない。
一番困るのが、歌を歌えないこと。
一呼吸でもズレると咳き込んでしまって歌うどころじゃなくなる。
喉自体は生きているのに、アンプになる呼吸が出来ないとはひど過ぎる。
早く治さなければ、と強く思う。

いつかもう一度、あの人に歌を届けたいと、そう願いながら、
けれど実際は歌を歌うことさえ出来なくなりつつあるとは。
理想と現実を隔てる壁はあまりにも高く、弱った自分の身体ではまだ越えられない。
越えられない壁だというのならば、
ぶち抜いて、貫き通して、道をつけるまでだと思う。

とりあえず、無理を承知で歌ってみよう。
出来ないからといって放り出していたのでは、本当に何も出来なくなる。
自分の弱さがこの身体を作ったというのならば、
その弱さを薬に頼って治すことより、根性叩き直して作り直す方が性にあってる。
理想が現実を凌駕するために。
まずは声を出してみよう。

11 , 11
コラム三日目。
やっぱり比較的長い。
とりあえず、選択肢。

Q.愛されるために必要なのは?

A.真実を求める
B.現実を認める

【 Read More 】
11 , 10
コラムを書きまくりデー二日目。
今日はyahooニュースの記事から面白いのを見つけたので取り上げる。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071109-00000126-mai-soci

10~20代の間で、5割が交際中にDVにあっているのだという。
ひどい話だ、というよりこれが今の社会の現実だ。
暴力はいけないと理解して、他人には暴力を振るわないというのに、
愛すべき人に対しては異様なまでに暴力的に振舞っているこの矛盾社会。
過去にも何度か恋愛系のコラムは書いているが、
こういう実態をデータとして出されて見ると、苛立ちはさらに加速する。
男が悪いとか、女が悪いとか、そういう問題じゃない。
ここまで来ると社会が悪すぎる。



【 Read More 】
11 , 08
昨今の小中学生の2割の間で、
「人は死んでも生き返る」
という非常識回答が出ているということについて考えてみた。

参考:http://kisosuu.cocolog-nifty.com/zakki/2004/12/2.html
(ニュース記事がすでに古くて排除されているため、人様のブログから。
 借用を多少詫びる)

正直、これを「ゆとり教育が悪い」と片付ける一面的な考え方を僕は好まない。
バカかてめえ、と言いたくなる。
教育の劣化にゆとり教育が多大な影響を与えたことは間違いないが、
なんでもかんでもそのせいにして、社会変化や時代状況を判断に入れない時点で、
ゆとり批判をしている人間もまた、ゆとり脳に等しいもんだと断言する。
五十歩百歩というわけで、この辺で本題へ。



【 Read More 】
11 , 04
やめとくべきだ、と思いながらも写真を取り出したりする。
半年前なら涙を流してしまいそうになっていたこの写真達も、
今では愛おしく感じる時間の1ページだ。
遠くへ来てしまったなあ、という思いよりも、
幸せだったなあ、という懐かしむような感慨深さよりも、
現在進行形で続くエピソードの臨場感を、なんとなく感じられた。
どこかで「終わった」という絶望感を抱えた時期もあったけれど、
神さま、今ではその絶望感を希望に置き換えて僕は前に進んでいます。

いつからか夢を見始めた。
口にはいつでも「諦めない」という呪文を添えて。
最初は自分を励ます情けなく、貧しいメッセージだった。
気がつけば、それは僕の中で当然になり、根源の意思となった。
諦めない、諦めるわけがない。
本当の終わりは自分の死によってしか訪れない。
それ以外は、自分から物語を諦めようとした愚かなエピソードの1枚に過ぎない。

続きを書き続ける限り、物語に終わりはない。
勝負に負けて、人生に負けて、大切なものを失って、
それでも、語り手が死なない限り物語は無限に続く。
主人公の栄光と挫折なんて大して意味のあることじゃない。
悲劇もまた、人生という大河の中では意味のある流れの一つなのだ。
悲しみの分流は、また再び大河の中で喜劇の波を持って海へ向かう。
終わりが来るのは、生を終えて、母なる海か大地に飲み込まれる時だ。
それまでは、この口から、この指先から、物語は失われることがない。

あの人にもソレを感じる「型」はあるだろうか。
疑問系で思案することはない。
あって欲しい、と願うことにしよう。
もしかするとそれは歌であったかもしれないし、詩であったかもしれない。
あるいは何にでもなろうとした、その演戯(Act)であったのかもしれない。

思えばあの人は何にでもなることが出来た。
少女でも少年でも、歌姫でも老婆でも、なろうと思うものには何にだってなれた。
それは一つの才能と言えるものだったと思う。
人を真似る、というのは一芸だけなら大したものではない。
その役に自分をはめて、自分もそうなりたい、という意思が入るまでになると、
もはやそれはごっこ遊びではなく、れっきとした「表現技法」だ。
絵画にも、音楽にも、文章創作にも通じる、「Message」の方法だ。
今から思うと、本当に羨ましいくらいの才能だった。
あの歌声は、あの表現力は、今でも衰えることなく輝いているだろうか。

そういう型は誰にだって恐らくはあるはず。
けれど、大人になるにつれて、生きるのには不要というより不便な型であるから、
必然的に気恥ずかしさからソレを捨てて人は生きていく。
ロマン溢れる言葉より、シビアな現実を見据えるために。
至高の幻想に思いを馳せるより、生きる糧を得るために。
ワルツを踊れるだけではディナーにありつくことが出来ないように、
ただ口笛が上手に吹けるだけでは、パン一つだって貰えない。
腹を満たすに相応しいだけ、人の心を動かせなければ、
その「型」を持っては生きていけないのかも知れない。

だから、諦めて畑を耕すのか。
それとも、人の心を動かそうと真剣に励むのか。
「culture」という単語は元々「農耕」を表す言葉だ。
実際の田畑を耕すか、それとも人の心という大地を耕すか。
違いは恐らくその程度。
肝心なのは「見えない」というそれだけ。

「見えないもの」を信じにくい、というより疑ってしかりという世の中だ。
真実を語らないと許さない、証拠を見せろ、と怒鳴りつける。
そんなことが当然になったこの世界で、
カタチなく、数値として良さが見えない「芸術」なんてものは、
確かに疑わしくて納得のいかないものなのかもしれない。
人の心は、動かしにくくなったのかもしれない。
だけど。
動かせないのは自分の力量が足りないだけのことだ。
「見えないもの」を「感じられる」だけ魅せていないだけのことだ。
見えるようにすればいい。
見えないのなら、理解できないなら、
理解るまで音を、文章を、絵を磨き上げて尖らせて、
大きなボリュームで、クリアな音色で叩き付けてやればいいだけなのだ。

まだ、僕の力量ではそこまで尖って、心を奮わせるほどのものが作れない。
磨くのだ、これから。
まだまだ、スタート切ったばっかりなのだから。

11 , 02
バイトのシフトが午後から午前に変わったおかげで、一日がゆったり感じられる。
その分、収入的にはマイナスにはなるものの、
筆先に力を込めることで取り戻したい。

久しぶりに自転車で町を巡ると、色んなものを得られるものだ。
落ち葉をカサカサ鳴らして走る小道だとか、
11月なのに意外と暖かい空気だとか、
もう飛来してる白鳥だとか、
あるいは、焼きたてのたい焼きのパリパリでアツアツな美味しさだとか。

きっと、午後を自由に使えるから得られる幸福感だろう。
それは大人でも子供でも、本来あるはずのない時の合間だ。
普通はこの時間、学校に行っているか、仕事に行っているか、二択になる。
夜から働く人はまた別だけれど、普通、午後は忙しいピークだ。
何気に一番世界がキレイに見える時間なのだけれど、
そういう時間を「ハコ」の中で過ごすというのは、勿体無いように思う。
太陽がこんなにもキレイに世界を照らしているのだから、
出来るならばその恩恵に預かって、秋の一時を楽しみたいと思う。
秋はもうすぐ、過ぎ去ってしまうのだし。

札幌では初雪を観測したという。
この土地で雪を見るのもそう遠くはないだろう。
雪の降る季節は決して嬉しいわけではないが、
その人恋しさや寂しさに負けぬように、心を鍛えるのにはちょうどいい。
世間が幸せ色のネオンに染まる中、
僕は未来のサンタを目指して精進しよう。
今年はイヴのベルよりも、除夜の鐘を聞きたいね。
不浄な煩悩を捨てて今年を終え、来る年の幸運を祈りたい。
きっと来年は、いい年になるであろうから。

11 , 01
進化や栄枯盛衰などを考えていくに当たって、
その経過で思い至ったのがロマサガ2だった。
細かいことは面倒だから書かない。
大雑把に言うと、

「七英雄/伝承」

この二つが鍵を握っている。
七英雄はこれまで幾千幾万ものゲームが生まれる中で、
かなり稀な「悪」のオブジェクトとしてそこにいる。
主人公たちが打倒する悪の様相というのは、
大体が「独裁者」「凶暴」「秩序の破壊者」「私怨の相手」
と言う風になっているが、七英雄というのは、
「かつて世界を救った英雄」
なのである。
これがどの程度違うかと言えば、神と魔王くらいに違う。
大体が魔王をラスボスにするのとは裏腹に、サガ系のボスは神が敵でも珍しくない。
かつて世界を救った英雄でも、敵になることはある。
むしろ、世界を平和にした存在だからこそ、敵になるのだろう。
平和の創造と秩序の破壊は紙一重。
たかだかゲームの中の「おとぎ話」とは言え、
そこにあるのは、間違うことなく、この世の真理であるように感じる。

どういうのが真理なのかってのはゲームやればわかるので割愛。
ともあれ次、伝承システム。

皇帝に伝えられるその秘法は、帝国を強固にする礎となった。
この根本にあるのは、人間生活の根本にある「記録」の概念である。
本来、文化の継承は記録媒体によって行われるもの。
かつては口頭、それから文字になり、今ではHDDという電子情報になった。
伝承システムというのはこれをさらに凌駕しており、
死んだ人間の知識、技などをそのままそっくり引き継いでしまうものなのだ。
マトモに考えれば恐ろしくなってくるわけだが、
このシステムに向かって人間は進んできたはずなんだがなあ、とふと思う。
今、果たして後世に受け継いでいけるだけの力が、日本人にはあるだろうか?
継承や伝承といった力が、果たして残されているだろうか?

人間の力のほとんどは、この文化の引継ぎによって生み出されてきたもの。
科学の進歩は、多くの科学者の屍の果てに生まれたものだ。
知恵と学説は幾つも生まれ、死に、そして蘇って現代に渡っている。
今、我々が当然のように扱っている機械の類、電気の類など、
多くの科学者たちが築き上げた人生の結果なのだとかみ締めずに、
ただ当たり前のように使っていることが実は結構恐ろしい。
「なぜ」こんなものが必要だったか。
「なぜ」こういう風に進化してきたのか。
その理由を失ったまま、ただ経済のため、資本のために暴走し続ける現代が恐ろしい。
文化とは不安と不満を解消するために創造されるものだ。
必要もないのに需要を生み出そうとするこの社会は、ならば一体どういうものだろう。
必要のないものを買わされ、それを当然としていくこのスタイル。
どこかでメッキは剥がれるだろうが、それが遠くないことは予見してみる。
人類は、あまりにも加速しすぎている。
それが常々、恐ろしい。

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