閉鎖した世界。
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07 , 27
というものについて、ふと考えてみる。

日本人は元々、誇り高い武家の理を重んじてきた気風がある。
礼節や身形、一挙一動にまでその誇りは突き詰められ、
場合によっては目線の位置や表情の重さなどにも、それが表れる場合があった。
『家』というものを大事にしている古風な、
今で言うところの時代錯誤な、亭主関白で大黒柱たる「家長」のあるような、
そういう重たい空気を持つ家の人間は、やはり社会的に恥をかかぬように、
自然とそういう教えを学び、家の誇りや自身の誇りを守っている。

しかし、昨今の個人主義時代の到来によって、それも崩れ始めた。
『家』という基準を持たないために、恥というのも個人の身に受けるものとなった。
つまり、恥を辛いと感じなければ、恥であっても気にしないのだ。

この点について二つ感じたのは、

1.失敗や侮辱をポジティブに受け入れられる寛容性が今の日本人にはある
2.屈辱的な物事に対して劣等感を抱かないため、自己の成長を促そうとしない気風がある

自分的には1.を奨励したいところだが、現実は2.の傾向の方が圧倒的に強く、
自分自身もまた、そういうネガティブ因子を感じにくくなったせいか、衰えが酷い。
昨今は鬱が流行性の病なので、1.の考え方を奨励する環境が整っているのだが、
もしかすると逆に、2.のように「屈辱的だ」と感じる方が、
自己を成長させる上では、必要なことなのではないか、と感じる。

ちょうど今の時期、田んぼでは稲の水抜きという作業が行われる。
これは田から水を抜くことで、稲の根が水を求め、下に長く伸びる活動を促すものだ。
環境が苦しくなれば、植物は生き延びるために自ずからその細胞を進化させる。
誰が教えたわけでもなく、生存本能として、単純化された生命活動のための進化を遂げている。

最近の日本人は、「成長のための劣悪環境」を受け入れられなくなっているのではないだろうか。
あるいは、その痛みを感じないように「恥」という精神を捨て去ったのか。
前者であれば、僕のように引きこもりがちな大人になりやすく、
後者であれば、現状に妥協してしまいがちになり、プラスに転じにくい傾向にある。


「恥を忍んで、お願いします」
という言葉もかつてはあった。
それは、「恥」をかくという行為に対外的な価値があるゆえの言葉だ。
金やモノでは払えないため、「自分のプライド」を交渉のテーブルに売り渡そうという、
かつての日本人では身を切るほどの痛みを持ち込んだ交渉手段。
土下座、という文化を持つ日本人らしい言葉である。

これもまた、昨今のように、恥を恥と思わない若者には実に意味のない言葉となった。
「恥」に価値を伴って交渉テーブル上に持ち込めたのは、
かつての日本人がそれだけ「誇り」に自身の商品価値を秘めていたが故だ。
今のように、恥を自分から晒すことを美徳としている社会の中では、
恐らく、どれだけ頭を下げても、侘びを入れても、ほとんど意味がないのでは、と感じる。
「恥を忍んで」いるのではなく、「恥を知らない」だけなのだから。


厳密に言えば、価値があったのは「恥」そのものではなく、
礼節や体裁と言った、純白系の美徳である。
これを他者の手にゆだねることで、「汚される」わけなので、
要は一種の身売り的な効果をそこにもたらしてしたわけだ。
今でこそ、恥は掻き捨て、という風な言い様が出来るわけだが、
かつての日本では、恥を掻くということは、それだけで悶死しそうなものだったはずだ。

侮辱も侮蔑も、今の時世ではかつてほどの効果を得られないだろう。
これもまた、今の世に「恥」という概念が薄れてきているためだ。
汚す前から相手が穢れているのでは、貶めることにも同様に価値がないのだ。
望んでバカをやっている人間をバカにしても、相手を喜ばせるだけでなので、
結果、今の世で最大の忌避的行為は「無視」「端的な批判」という温度の低い哄笑になった。
これは「いじめ」というウイルスが余計にタチの悪いものに変質したようなもので、
「恥」は、かつてのような「汚す」ような対象ではなく、
相手を呪い殺すかのような、そういう冷徹な他者否定のものとなってきたように思う。

「恥」に対して寛容な社会なのか、「恥」に対して冷徹な社会なのか。
今の日本の社会は、人間で言うなら「顔で愛想よく笑って、心でもっと冷たく笑っている」ような、
そういうエコノミックで下劣な雰囲気を漂わせている。


お笑い芸人には二種類いるわけだが、
「人で相手を笑わせる人」と「自分で相手を笑わせる人」。
かつて、7~90年代の芸人は自分を切り売りして相手を笑わせていた。
今、バラエティに出ている芸人のほとんどは、相手を弄って人を笑わせる。
つまり、相手に恥を掻かせて笑いを取るわけだ。

笑いの質が変わったことで、こんなにも社会全体に及ぼす効果がある。
人を笑うか、人を笑わせるか。
同じ笑いなら、自身の恥を売り飛ばして笑いを取る方が健全だ。
エンターテイメントの難しさがそこにはあり、前者が有益な社会になったからこそ、
バカにされた時に耐えれるように、皆、恥を捨てれるように生きてきたのだろうか。


話の原点に立ち返るわけだが、
そう考えてもやはり、基盤となるべき「誇り」なくして「恥」はなく、
「恥」を捨て去るからこそ「芸」の道に身を置ける。
いずれにしても「恥」を思うだけの「誇り」が必要なのであって、
そもそも最初から「恥」がないのと、「恥」を捨てるのでは全然話が違うのだ。

人間は、捨てた分だけ得るものがある。
得てもいないものは捨てられないし、やはり得られるものがない。
なら、「何を得ているのか」。
これを理解し、それを捨てることで、必ず前に進む一歩はあるような気がする。

石と宝石と黄金と。
自分の得た全てを分別し、それを取捨選択できたとしたら、
きっと、その先得る全ては黄金になるのではないだろうか。
「恥」はそのセンサーたる何かのような気がする。

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07 , 25
人の死というものがすぐそこにありながら、その現実味を受け取れていない。
それほどあいつは遠い存在だったのだろう、と考えるが、
今の自分を形成する上で、あれの存在は確かに大きな影響を受けた一人だ。
悲しくない、と言えばきっと嘘だろう。
やはりショックを受けた。

しかし、痛みを得るほどの悲しみにはならない。
比較的、高校時代に近しい距離に居た僕だからこそ、あれの死は悲しくない。
きっと、微妙に遠くにいる人間の方が悲しんでいるに違いない。
あれが、最初から死を前提に生きていたことを、果たしてどれだけの人間が知っているか。
不思議と、あいつの人生を振り返ると、この寿命を知っていたかのように、
やたら刹那的で、自分の命や人生をリスクに掛けたがっていて、
その奇妙に面白おかしい生き様は、魂を売り飛ばして生きているように見えた。

おかしな話、憧れの一つでもあった。
あのアウトローな生き様、恐れ知らずの脱法生活。
その自由で自分に忠実でむちゃくちゃな生き様を、どこか羨んでいた自分がいる。
『世界』というものに対して、あいつは常に一歩外側に出た位置を目指していた。
だから、憧れたのか。
あいつの見ようとしてた世界の外側は、チャンスとピンチの狭間だったから。

今、自分とあいつを照らし合わせてみて、
その立ち位置があまりに遠すぎたことを、改めて痛感する。
学生時代から既に、あまりにも離れすぎた歩数。差のありすぎる歩幅。
その歩幅が大きすぎたことが仇になったのだろうか。
あいつは一体、何歩先で、どれだけ大きな落とし穴にはまったのだろう。
何となく、その感覚を理解するのはずっと先のような気がする。

騙し、騙され、利用し、利用され。
あいつはその辺の駆け引きが上手だったが、きっとそれゆえなんだろう。
人を小バカにしたような態度で、まるで悪魔のようにせせら笑っては、
こっそり漁夫の利を持っていくのに長けていた、そんな男。
全く……可哀想とすら思えないんだよな。

悪いヤツじゃなかった、なんて言うつもりはない。
あいつは悪いヤツだった。
けど、嫌なヤツではなかったし、面白いヤツだった。
いつだって世界の半歩先を見て、次のステージを先取りするようなヤツだった。
もしかすると、アイツが本気を出していたら、
世界の1%くらいの人間を驚かせるような、
そんな何かを作り出していたかもしれない。

千葉県の誘拐殺人事件がピックアップされ続ける裏側で、
あいつの事件は世界にとって小事とみなされてしまったらしい。
NHKでは報道されず、民放でも特ダネというほどのモノにはなっていない。
盗まれた金額が少なすぎたせいだろう。
よくある話だったからだろう。

それでも。
こんな形で失われたあいつの命を、あいつの無念を、
できれば、これだけで終わらせたくはない。
そう思う。

墓が出来たら花くらい手向けてやりたい。
きっと葬儀は身内だけで行うはずだから、場所もわからないかも知れないが。
新聞のお悔やみ欄でも見ておけば、何かわかるだろう。
……冥福を、祈ってやるよ、旧友。

07 , 20
と書いてマジと読んだり、本気と書いてマジと読んだり。
「真剣=本気」と言うのは、やはり剣道が筋なのかなと考えさせられた。

たまたま立ち読みした本の中で、記憶に残ったものがあって、

『攻め気のない剣と言うのは、気迫の時点で違います。
 打突部分がたまたま当たったのを上手くなったと勘違いしている人も多いですが、
 偶然当たった、偶然勝ったというものには気迫が伴っていないのです。
 竹刀で叩いたとしても、音が違う。恐らくはポク、と言うものになるはずです』

何事もそうなのでは、と考えさせられた。
本気で打ち込む、という事柄は既に目線や意思の時点で何かが違う気がする。
建前上、格好いいことを言うのを本気とは言わず、
「絶対にやり遂げる」という覚悟と実際の行動が伴って、それを本気と言うのだろう。
本気は難しい。

また、

『気迫で勝ったのなら、後は100%捨てる気でいかなければいけない』

と言うのも章のタイトルにあって、
やはりこれも、シンプルに明確な「本気」の指針になっていた。
意思決定の先、全身全霊の瞬発的な行動をしてこそ、本気。
キエェ! と気迫をぶつけた後、どっちにしよう、あっちか、そっちか、
と迷っていたら、それだけで隙だらけもいいところ。
明確な意思決定の先は、考えるのをやめて、結果だけに集中するべきなのだろう。

……だろう。
つまり、俺自身の中でそれは「借りてきた言葉」で、実感として足りない。
本気の出し方や、本気のぶつけ方、本気を結果に導く体験、
そういうのが、あまりにも足りなすぎる。
人生の中で、自分の努力で「手に入れた」と思えるものがほとんどない。
「与えられた」ものの方が断然多くて、如何に自分の本気経験が少ないかわかる。

本気で手に入れる。
そのための決意の言葉は、覚悟が出来なければ吐いてはいけない。
本気の出し方さえあいまいな俺なのだから、
浮ついた心が生んだ『格好いい言葉』を酔って吐き出していたら、それは事件だ。
自分にどれだけの本気が宿っているのか、きちんと確かめよう。
どんな刀も、手入れを怠れば錆付いてしまうのだから、
『本気』という『真剣』を研ぐことを、今から始めよう。

07 , 11
「境界線上のホライゾン2(下)」を読了。
感想とかを述べると墓穴を掘りそうなので、テーマになっている「強欲」についてのみ抜粋。

本作では宗教上の「七つの大罪」を基点として、
人が成長する過程だとか強さだとか世界の発展だとかを語ってるわけなのだけど、
そのうちの「強欲」についての話が今回の主題。

ちなみに七つの大罪ってのは、

傲慢 (superbia)〔Pride プライド〕 〈Lucifer〉
嫉妬 (invidia)〔Envy エンヴィー〕 〈Leviathan〉
憤怒 (ira)〔Wrath ラース〕 〈Satan〉
怠惰 (acedia)〔Sloth スロウス〕 〈Belphegor〉
強欲 (avaritia)〔Greed グリード〕 〈Mammon〉
暴食 (gula)〔Gluttony グラトニー〕 〈Beelzebub〉
色欲 (luxuria)〔Lust ラスト〕 〈Asmodeus〉
       [wikipedia抜粋]

のことで、キリスト教的な解釈部分。始祖はもっと古いとこにあるらしいけど。

宗教的に、上記七つは罪だと言う。
そのいずれもを節制しなくては、人が魔(獣)に堕ちてしまう、
というようなブレーキを宗教的に(社会的に)は掛けているのであるが、
本作ではむしろ、そのタガを外してしまえよ的なメッセージを送っている。

なぜか?

他六つについては、とりあえず保留掛けておくとして、
「強欲」についてのみ考えていくと、
「欲する」という感情は、人間が生きる上で決して欠かしてはならないものだからだ。

それは特に、当たり前に当たり前として豊かさが溢れている現代においては特にだ。
電気があり、水道があり、少しあるけばコンビニがあり、娯楽や享楽にも事欠かさない、
そんな現代だからこそ、「望まない」という病に掛かる人も多いのではないかと思う。
事実、俺自身もその典型例に当てはまるのだから。

満足や充実という感覚は、人から「欲望」という野性を奪い去ってしまう。
美味しいものが食べたい、立派になりたい、お金が欲しい、オシャレがしたい、
いい女と寝たい、デカい家に住みたい、自分の土地が欲しい、むしろ国が、世界が欲しい。
そういう欲はあって当然、むしろない方がおかしいのだが、
「世界が欲しい」と思うほどの欲、そう滅多にあるものでもない。

人の欲には限りがない、と昔の偉い人はのたまったものだけれど、
確かにそのとおりの部分と、悲しいけれど逆な部分もある。
人はどこかで望むのを辞めてしまう。
これでもう満足、あとはいいよ、あと何もしなくてもいい。
そう思ってしまう、抑制機構というか、安全装置が必ずある。

そこで、だ。
先日読んだ「一瞬で自分を変える法」の帯にも書いてあるとおり、
『人は自分の望んだ分の価値しか得られない』
わけで、それには得たものを維持する分の数値設定が入っていないことがほとんどだ。
憧れのマイホームが欲しい、と思ってそれを実際得るまでのお金を貯める人は多い。
が、住居分(加えて土地分)までをローン組んで支払う算段は済んでいるかも知れないが、
十年区分での家屋、並びに内装の補修費用、固定資産税、その後の相続税など、
「維持費」としての計算値を入れて、「望んで」いる人がどれほどいるだろう?

つまり、「望み続ける」必要性がずっと続くのが普通なのだ。
生きている限り、人は何かを「望み続ける」ことで生きているのだから。
しかし、「望み続ける」というのはやはりエネルギーを費やすことになる。
目標点に辿り着くための短距離イメージとは違う。
道程で、長く長く、予期せぬだけの消耗をしていくような、そういうエネルギーを。

そのエネルギーを支えるものこそが「欲」、
それも尽きることがないほどの「強欲」という罪なのだ。
生きることの大前提を支えるほどの人の成長、進化、獲得を促す重要なファクター。

それを「罪」とするのは、果たしてなぜだろうか、と。

あちらさんの宗教では、神様絶対主義なので、その信者は「哀れな子羊」になるわけで、
それはつまり、神様的に「子羊」を統御しやすくするための文句ということになる。
いわば、宗教的な圧力、政治的な権力として、それを使った部分は、当然にある。

もちろん、人の道徳観念を統御する意味においても、必要ではある。
傲慢で嫉妬深く、 憤怒に溢れ、怠惰で、強欲にして暴食、 そして色欲に狂っていたりすれば、
人の社会においては、それを「危険」と認識して、排除せざるを得なくなるのだから。
人と和を以って暮らしていくためにも、これらを節制する必要は確かにあった。

だが、もっとも的確な答えがあるとすれば、
「貧しかったから」なのではないだろうか、と。
「強欲」を許すほどに豊かであったのならば、
社会繁栄のためにも、自己進化のためにも、もっともっと望めと言うべきなのだ。
それを促せないほどに、貧しければ、どうなるかといえば、
少ない食料を、資源を巡って争いが生まれ、殺しあわなくてはいけなくなる。
それゆえに、自然と寡欲に身分相応の望みを抱けば幸せ、という観念を生み出してきた。

あくまで、それは貧しいことが前提にある社会においてだ。
今の日本のように、全てが満たされた社会にとっては、
強欲さを失っていくことは、むしろマイナスでしかないような気がする。
戦後、日本が貧しい中でプロジェクトXを樹立させ続けた背景には、
その貧しさを覆すほどに「強欲」な人達が溢れていたからなのであって。
平和にしたい、豊かにしたい、もっといい日本にしたいという、
そういう願いが、今の日本を作ってきたのだから。

第一世代となる戦後世代が築いてきたものを、
第二世代となる自分たちの親世代が繁栄させようと努力した結果として、
第三世代には、その繁栄を支える役割と、返済不能な額の国の借金を残された。
その上、この世代は満たされることが当然になっているから、
「求める」「欲しい」「足りない」ということが体の中にわからない。
現状のままでいい、という思いを確実に抱いている。
(それが今でいう「草食系男子」とかいうものを生み出している部分に直結する)

「欲する」ということは、直接的に言えば「奪う」ということだ。
争いをして、力ずくで獲得するということになる。
望まずともそこにある今の世代にとって、争いをするという感触は、かなり薄い。
俺自身には、もっとも欠けている要素の一つで、ちょっとした病とも言える。

誰かと争わず、しかし「どうしても欲しい」。
そういう感情に溢れていくのが今の日本人のスタイル。
そんな都合のいいことがありえないのだということを、本作の作者は否定してくれるのだが、
読者たる自分としては、やはり争うことに対しての抵抗感が先に来てしまう。
意見の衝突も、誤解も、すれ違いも、やはり苦手だ。

それすらも乗り越えて、ぶつかって、獲得を望んでいくからこその「強欲」。
失うことすらも恐れない、それが争いの前提で、何かを手に入れるということの基本で、
だとすれば、

果たして、僕は何を望み、何を失う覚悟で、そして何を手に入れたいのだろうかと。
どれもこれも考えが中途半端でいけない。
まずは「何がほしいか」。
そこを明確にしなくてはいけないな、と、そう思う。

07 , 04
ボカロ曲一覧。
http://www5.atwiki.jp/hmiku/pages/893.html

以下は個人的に好きなヤツ。








07 , 02
http://mangazenkan.com/item/604.html

マンガ読んで感動するってのもずいぶんと久しぶり。
フケたせいか、それとも何だかんだと読み漁ったせいか、
「面白ェ!」と思わせるだけのものに出会うこともかなり減ってきた中で、
こうして「面白い……!」と思わせるだけのものが転がっていたことは、
本当にありがたいと思う。

米原秀幸氏のコミックを読むのは中学校以来。
「ウダウダやってるヒマはねェ!」「フルアヘッド!ココ」など、
強烈な画風と、雄々しい物語展開に惹かれて記憶に残っている作家だ。
その米原氏が昨年まで描き続けていたのが本作「Dämons(ダイモンズ)」である。

かつて友人と呼んだ5人の男に、
目の前で妻子を殺され、己の両腕をもぎ取られ、
それでも生きていたのだとしたら、その失意と殺意はいかほどか。
主人公「ヘイト」はその恨みと怒りを武器に変えて、復讐鬼となり果てる。

古来、復讐劇というのは、
どこかで人情めいた話を盛り込んで、その無意味さを諭すような場面があるのだが、
本作はブッちぎりで復讐にのみフォーカスをあわせた修羅の物語である。
作者自身も「全力で復讐劇を描いてみたかった」と言っており、
正に初志貫徹で、恨み節が募った作品となっていた。

ただ、復讐の最中でも、人間は成長していく。
ヘイトの復讐に特化した異能「ゼスモス」がその威力を増大するのに比例して、
ヘイト自身も、より精巧に、よりたくましく、復讐に特化した自我と自身を築き上げていくのだ。

心の強さが人の強さ。
それはどうしても道徳的な縛りを受けた言葉になってしまうのだが、
本作では非道徳(インモラル)な心の強さを、より特化させて強くなる人の姿を描いている。
その姿は正に悪魔。暴力と無法によって築き上げられた修羅である。

だが、悪魔とは果たしてどちらなのかな、と思う。
己の欲のために人を利用し、人を裏切る者も悪魔ならば、
その裏切り者を始末するためにあらゆる無法に手を染めるのも悪魔で。
ゆえに本作のタイトルが「Damon」ではなく「Damons」(複数形)なのかなと思う。

きっと世の中、悪魔だらけなのだろう。
聖母、聖人と呼べる人など、おおよそ巡り会うのも難しい。
その中で、人として生きていくにはどうしたらいいのか。
失敗をしない人などいない。
誰も傷つけずに生きていくことなど出来やしない。

ゆえに。
転んだら起き上がり、傷ついたらそれを癒し、間違えたら謝り、
そういう風にするのが、人としての生き方なのだろうか、と思う。
罪を懺悔し、告白する。
もう2000年以上も続けてきたその当たり前の行為を、
人間はもっと大事にしてもいいんじゃないかな、と考える。

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