FC2ブログ
閉鎖した世界。
-- , --
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


08 , 31
衆議院選挙の結果を見て愕然とする。
蓋を開ける前から、民主党の320議席というありえない数字が予想されていたが、
予想どおりの悪さを、まざまざと見せ付けられる結果になってしまった。
自民惨敗、民主圧勝。
今、確実に、戦後から今まで築き上げてきた日本の地図が、反転した。

それは社会における地殻変動。
これまでそこになかった場所に山が出来、谷が出来、意図しない場所に川が流れる。
これまで上手くいっていたことは上手くいかなくなり、
これまで上手くいかなかったことが突然上手くいくようになったりする。
まさに風雲、波乱の世。
台風が来ているのは、嵐の幕開けという意味合いなのか。

身近なところで危惧しているのは高速道路の無料化。
最近はETCの減税から頻繁に利用させてもらっているが、
これを無料化してしまったとしたら、一体、日本はどうなってしまうのだろう。
地方と都市とがボーダレスに繋がるようなら喜ばしい話。
しかし、維持・拡大費を無視して無料化するだけならば、
目先に餌をぶら下げているだけの、危険な法案だ。

無料化することでメリットを得る人は確実にいる。
運輸、販売、旅行、人モノ金を動かす人達には、必ずメリットがある。
高速道路を使って毎週のように都市部に遊びに出かける人もいるだろうし、
遅い下道を通らずにモノを運べるから、商品の値段が下げれる場合もある。
一見すればいいことづくめに、見える。

一方で、高速道路が繋がっていないエリアにとっては?
うちの市は高速道路のICを現在、頑張って建設中だ。
しかし、無料化することでこの予算が下りなくなったら?
高速道路が出来る目前のところまで来ているのに、それが廃止されてしまったら?
ただでさえ悲鳴を上げている土建会社はクビを括らなければならなくなるし、
地元の人にとっても、用地買収されて区画整理を食らっただけで、何のメリットもない。
完成は早くても2012年? だった気がする。
民主党が政権を取っている間に、完成してくれるのか? 完成したとして、メリットは?

また、高速道路の維持費はどこに負担されるのか。
これまで民間(東・西・中・日本高速道路)で徴収してきた使用料を廃止して、
一体、どこでそれを維持していけるというのだろうか。
道路財源は削減され、維持費も徴収しない。
増税もしないと言い張って、予算編成をしなおして、埋蔵金を使うと言った民主党。
じゃあ、その埋蔵金が尽きたら? それから先も無料化できると?

極端な話、民主党は全てツケに回そうとしている。
場合によっては国債の大量発行でこのマニフェストを実行しようとするだろう。
「思ったよりもヘソクリが少なかったので借金しました、ごめんなさい」
と平気でのたまってしまいそうだから本当に怖いのだ、彼らは。
ばら撒くだけばら撒いて、解散までに借金を山積みしかねない。
そして、夢を見せるだけ見せた後に来るのは大増税。
それを民主党はやらないまま、本当に消え去るのだろう。
大増税をするのはきっと自民党。
自分たちは汚れ役を引き受けないまま、民主党の首脳陣は退こうとしている。
だから、取っちまったもん勝ちとばかりのこの選挙のあり方は、非常に不愉快だった。

昨日、20世紀少年の第三章を見てきて、主人公のケンヂが言っていた。

「安っぽい悪になるんじゃねえよ。
 全部人のせいにしてんじゃねえ。
 それよりだったら、正義の味方をやる方がよっぽど簡単なんだ」


嫌われ者になってでも、世界を救おうとしている男の言葉だ。
本当に守りたい何かを守ろうとしている人は、自分で汚れ役を引き受ける。
格好悪いことも平気で言う。情けないことだって同じく。
それでも、嘘っぱちに正義を語るより、よっぽど良い。
あいつが悪いんだ、と自分の責任から逃げるよりよっぽど良い。

信念に、悪も正義もない。
表舞台に立っている以上、誰かに嫌われることは当たり前なんだろう。
安っぽい正義と、都合の良い言葉で、嫌われたくないと思っている限り、
きっと本当に愛されることはない。
嫌われても、嫌われても、それでも守ろうとして、信念は貫けるのではないだろうか。
本当に国のことを守ろうとしている人に、この国を背負ってもらいたい。

だからとりあえず鳩山だけは辞めてくれ。
全部自民党のせいにして、自分たちは悪くないとか言い張るあの人だけは、
どうか、頼むから総理大臣にしないでくれ。
民主党にはもっといい人材がいると信じたい。
日本を良くしてくれると信じたいから、どうか、鳩山だけは辞めてくれ。
あの顔嫌いなんだよ。

スポンサーサイト
08 , 29
原作を読んでみた。
アニメから入るには、少しもったいない気がしたから。
たまたま昨日、NHKの番組に原作者の上橋菜穂子さんが出ていて、
作品の成り立ちについて語っていたのを見て、より良く読ませて頂いた。

元々、上橋先生は川村学園女子大学の教授様。
オーストラリアのアボリジニーなど、民俗学に精通しており、
彼らの生活体系などを参考にしたとか、そういうレベルではなく、
もはや民俗学的な生活風景が体感として沸いてくるのだと言っていた。
匂いがあり、温度があり、風景があり、そこから生活が感じられ、
国を知り、町を知り、民族を知り、そして改めて人を知るのだと。
ミクロに、マクロに民俗性を捕まえて、本当にそこに住んでいるかのように、
上橋先生の世界は描かれていて、だから、その住人たちの姿は生き生きしていた。

主人公エリンは、これまで日本で作られてきたヒロイン像の中でも、
かなり稀有な部類に当たると思う。
どうしても日本の女の子主人公は、王子様的な男の子の出現が避けられない中で、
エリンはただひたすらに生きて、獣の生き様を追いかけて描かれていく。
どちらかと言えばジブリ。
もしかすると、チャングムの誓いも形態として近い。
アニメのヒロインとしては、本当に珍しいタイプの少女だ。

だから、とても魅力を放っている。
純粋に、自分の信念を追いかける姿というのは、男女問わず美しい。
エリンの生き物への好奇心と、そこに傾ける愛情というのは、
人の世の愛憎に満ちたくすんだ色ではなく、透明な、優しい色をしているのだ。

エリンの住む世界も、今のこの日本と同じように歪んだ社会構造をしている。
権威だけの王、権力を振りかざす臣下、体制変化を望む悪しき声。
少女の成長だけではなく、国家の有様、民族の対立なども描かれていて、
少年少女のみならず、大人、それもかなりの年の大人まで楽しめる作品だと感じた。

先日、第三巻、第四巻も発売したとのこと。
これはぜひ、最後まで読み通しておきたい。
今の俺に、今の世に足りないものがそこにあるような気がする。

08 , 28
って文字を最近見ていない。
理由はひどい。
GAME OVERになりそうになったらリセットボタンを押しているから。

そういう人、かなり増えたんじゃないだろうか。
ゲームに慣れている人ほど、この習慣は形式化している気がする。
とにかく上手くエンディングに辿り着くことだけがゲームになっていて、
失敗したり、味方のユニットが死んでしまったりしたら、
そこでゲームが終了したような、そんな風である。

ついでに、攻略本や攻略サイトというのが先んじて出尽くしてしまうので、
本当に頭悩ませて、時間掛けて攻略する、というのを最近していない。
わからなかったら、つい攻略情報を探してしまい、テクニックなどを盗み見てしまう。

要領よく人の手を盗んでいる、と言えば聞こえはいいが、
実際は自分の頭で何も考えずに、ただ人の手をなぞっているに過ぎない。
それはゲームをしているのだろうか? ただの作業ではないだろうか?

勉強や仕事も同じ気がする。
自分の頭で考えるより、人から習った方が早いと思っている節がある。
つまりは人頼み。自分から学び取ろうとする能力が欠如している。

うちの父や兄は人に頼んだり、人に聞くのが大嫌いなので、
多少モノを壊しても自分で何とかするのをよしをしている。
聞くのが恥ずかしい、というコンプレックスが彼らの自己解決能力を高めてきた。

人に頼ることは決して悪いことではないし、人の手をなぞることも悪くはない。
けれど、人任せに出来ないことは必ずあり、そういう場面になった時、俺は全く動けなくなる。
誰かのマネをしたり、誰かの手を盗んだり、そういう風にしか上手くやれない。
FFのジョブで言ったら「ものまねし」って所だろうか。
=自分の力だけでは戦えない。

先日のログから検証するならば、「行動」という部分が欠如しているのだ。
目標を立て、行動し、判断し、対応する。
その中から「行動」が抜けて、いきなり判断、対応と先走ってしまうから、
その穴を埋めるために誰かの力を借りなければいけなくなってしまう。
自分で行動し、自分で傷つき、自分で損をしていれば、
それは全て、自分の責任として受け入れることが出来るのに。

GAME OVERに対して責任を持つこと。
これはゲーマーとして当然の義務と考えた方がいいのかも知れない。
ゲームだから、痛くもかゆくもないのは確かだけれど、
自分がGAME OVERになった世界では、仮にとは言え幸せになれなかった人たちがいる。
大事な人を守れなかったり、全員が旅の途中で死んでしまったり、
国それ自体を放棄してしまったり、世界が破滅してしまったり、
ゲームだから、色んなエンドがある中で、ささいな失敗を放棄してしまうのは無責任にも程がある。

そう。
無責任。
それが俺の欠陥。
傷を負うことや失敗をすることの責任を、自分で取れないから、弱いままなのだ。

気持ち一つ切り替えるだけで、その問題は解決するのだろう。
問題は、どう切り替えればいいか、そこに違いない。
まだ見えない。漠然と方向性だけは定まってきたけれど、まだ足りない。
俺は、どう心を入れ替えれば、正しくあれるだろう。

08 , 28
20世紀少年第三章の公開を明日に控え、
以前テレビで録っておいた第一章を見直してみた。
何せ、今夜は第二章のテレビ放送。
見ようというのであれば、復習には余念がない。

20世紀少年は映画拒絶主義の俺が取っ付いた数少ない映画だ。
流行りモノには何とやら、というのではなく、
「あ、これは見てみたいな」と素直に思って見にいけた。
ここ数年のうちに、食わず嫌いが加速しまくっていた中で、
本当に珍しく、映画を連日見に行って、次回作を期待して、
原作をマン喫で読破するまで帰れなかった、なんてレアな体験をしている。
パンフレットはそういえば買っていない。

衝動で思わず突き動かされる経験なんて本当に珍しい。
そんな感触、もう鈍るだけ鈍ってしまっているのに、どうしたものか。
恐らくは、それだけ自分にとって必要なものがそこにあるからなのだと思う。

曰く、
本当に必要なものは、向こうからやって来る。


子供の夢を守りたい、と思う人は世にいくらでもいると思うけれど、
それなら、大人の夢は守られているのだろうか、と疑問を提唱してみたい。
本作は、どちらかと言えば大人の夢を守ろうとした作品だ。
今、大人になった自分や、あるいは同じ世代の人たちで、
夢をきちんと見ていられる人はどれだけいるかわからない。
ただ、少なからず社会の中にその鬱憤が溜まりつつあることだけは確かで、
この閉塞的な夢の墓場のような空気が、それを証明している。

未来とは目標のこと。
そして、その目標を指し示す誰かが、今いるだろうか?
こんな未来がいい、あんな未来がいい。
ドラえもんのうたをバカにしてはいけない。
こんなこといいな、できたらいいな、を果たして今、思い描いている?

そもそもに、不便のない現代に何の不満があるというのか。
だから、不満がないという不満が溜まっていく。
それは逆説的に捉えれば、前進するためのエネルギーがない、という不満だ。
不満とクレーム、問題点は、より良い何かを生み出すための原動力だから。

宇宙旅行に行きたい、と思っている人間は、実際それほどいない。
巨大ロボットを動かしたい、と思っている子供も、実際それほどいない。
ただ、そういうものがあったらいいな、と思っている人はそこそこいるけれど、
実際に、そういうものを作って誰かが得をするのか、と言ったら疑問が残る。

つまり、そんなものはいらなかった。
逆に、今のままがいい、という理不尽な未来を、皆が望んでいる。
それが今の社会を、この十年を作ってきたのではないだろうか?


20世紀少年では、そういう部分に目が行くように作品を描いている。
未来予想図のあり方、未来予想図の重要性、そしてその思い込みのベクトル。
どうあるべきなのか、浦沢先生は確かに描いている。

第二章を見終わったとき、俺は釈然としない衝動に拳を握り締めていた。
何が何だかわからないけれど、悔しいという思いに駆られて、歯軋りもしていた。
それはきっと、自分のことを笑われているようだったし、
このグータラな社会のことを笑われているようだったからだろう。
人間には、もっと前を向いて進む力があるはずなのだ。


ただ、恐ろしい。
今このタイミングというのは、選挙が被る。
民主党が政権交代を訴え、ただその変化・革新という部分にだけ光が当たっている。
時代は、変化と革新を求めているけれど、草の根から湧き出したものとは違う。
変化を求める民意を、民主党の幹部が利用しようとしているだけに過ぎない。
政権を取るための道具として、俺たちの民意を利用しようとしているに過ぎないのだ。

本当に、国民がこの国を変えたいと思うのなら、
たまたま都合よく「国民のため」だとか抜かす、お偉いのボンボンにそれを言わせるんじゃなく、
烏合の衆みたいな国民が、一致団結して政権を奪い取ってみせればいい。
タイでは空港を占拠して、それを実現してみせた。
なぜ、日本ではそれが出来ないんだと思う。

革命は、常に民衆が雪崩のように押し寄せて、祭のように、激しい勢いを持って行われる。
今回の選挙に、果たしてそれはあるのか?
行き場のないエネルギーを、ただ都合のいい方に丸投げしていないか?
20世紀少年という作品には、それをきちんと見出すためのエッセンスが溢れている。
どうか、この社会が正しいほうへ導かれていきますように。

08 , 28
手元に「一瞬で自分を変える法」という本がある。
優秀なメンターが、誰にでも出来るようにわかりやすく説明した本だ。
で、何で変わっていない、と自問自答をせざるを得なくなる。
要は、受け取る側がきちんと受け取ろうとしていない。
それが露骨に、ここに表れた。

作者アンソニー・ロビンズの言葉の要点を引用しよう。

成功の第一歩は、「目標」を持つこと。
 次に、「行動」すること。
 そして、行動の結果、目標に近づいているのか、遠ざかっているのか、速やかに判別すること。
 最後に、柔軟性を身につけること


とても普遍的なことのように書いているけれど、
その普遍的で当たり前のことがどれほど難しいことなのか、身に染みてよくわかる。
基本の「基」ほど、単純で、しかし実践が難しいものはない。
法則や抜け道を通り抜けるのではなく、積み重ねで獲得するものだからだ、基本は。

まず、『目標』の設定。
それは多くが外部からやって来るものを参考に設定するものだ。
誰かが設定した納期に合わせて頑張る方が楽な場合が多い。
自己目標ほど自由で曖昧なものはなく、好きに設定し、好きにやめられるから、
いつまで経っても目標達成できない、というのがほとんどの場合。
ダイエットなんかは特に顕著で、下方修正をすればするほど、体重は増えている。
実際、自分もここ一ヶ月で1kg増えてしまった。よろしくない。

次に『行動』。
行動しろ、と言われてすぐに身体が動くのはよく訓練された兵士だ。
行動しろ、と言われて考えてから行動するのは訓練されていない兵士だ。
行動しろ、と言われて何のことかわからなくてオロオロするのは兵士ですらない。クズだ。

と、若干海兵隊風に考えてみたのだが、この場合の行動というのは、
思考と行動は同一軸にあって、即思考し、即行動に移せることを、『行動』という。
5W1Hを適切に埋めて、『目標』に到達するための最短ルートを思考し、
自発的に解決に向けてプロセスを組んでいくのが『行動』なのである。
ただ言われたことをがむしゃらにこなすのは『行動』ではない。
ただ言われたことを愚直に覚えるのは『行動』ではない。
『行動』とは、自らの意思で『目標』を捉え、自らの意思でそこに向かうことが大事なのだ。
(ゆえに、これが一番難しい)

そして、『判断』。

目標が達成できるのかどうか。
いつまでに達成できるのかどうか。
どのように達成に向かっているのかどうか。
トラブルがあるのかどうか。

とにかく、『判断』などと言うものは経験則以外で語ることは出来ない。
経験もなく、理論だけで正否を問うた所で、失敗して当然だ。
上手く行っているかどうか。
それは、上手く行ったことのある人間にしかわからない。
ただ、上手く行っていないかどうかは、素人目にもわかることなので、
その時、どうするかが大事になってくるように思う。

失敗と判ったとき、どうしたらいいのか。
この判断こそが成功者とそうでない人を分けるキーポイントに思う。
失敗に対して出来る判断は、三つ。
諦めるか、別の方法を探すか、このまま続けるか。
山道を登ったり、あるいは知らない道を走ったりする時と同じだ。
成功者は、この際の判断を見誤らない。
なぜなら、彼らはここでの判断に時間を掛けないからだ。
上の三つのうち、必ずどれかを選び、そして成功に向けて着実に一歩進む。

失敗するケースの多くは、どうするか悩んで、選ばずに曖昧になってしまうものだ。
ピュリダンのロバしかり、シュレディンガーの猫しかり、
選ばなければ間違わない、という状態にしてしまうことこそ、最大の間違いなのだろう。
上記三つの中に、さらにもう一つの選択肢、「選ばない」「選べない」を選択することも、
また、人間には出来るわけで、それこそ、成功に対しての一番の反逆行為と言えるだろう。
考えることをやめたり、考えないことを選んだり、そうしてしまったのなら、
もはや、『目標』すら見えていないということになる。
そうなったら、いっそ原点まで戻ってみた方がいい。

「迷う」ということは、そこに判断要素が多く絡まっているからだ。
諦めることも出来、他の方法を考えることも出来、このまま続けることも出来、
そして、そこで迷ったままでいることも出来るのだ。
これを自分の意思で「判断」、いや、「決断」することが、成功への第一歩となる。
「迷う」=同じところでループしているのでは、いつまでも前には進まない。

最後に、『柔軟性』。
柔軟性とは、受け止めるためのクッション構造のことだ。
失敗や成功というものが、変化を与えるエネルギー(衝撃)だとしたら、
それを正しく受け止めれるかどうか、ということも大事な要素である。
もし、俺のように変化に弱く、ちょっとの衝撃で打ち砕かれてしまうような、
そんな脆弱な「心」をしていたら、ほんの少しの失敗や成功で、
あるいは諦め、あるいは浮かれ、本来の自分を見失う。

失敗したからそこで終わりではないし、成功したからそこで終わりではない。
その失敗の先に、あるいは成功の先に、新しく自分の目標を、
言い換えれば、新しい自分を受け入れていけるかどうか。
凝り固まった古い自分を脱却し、新しい自分の立場を受け入れられるかどうか。
それが、『柔軟性』。
万事に適合するだけの対応力。如何なる状況にも戸惑わない判断力。
さながら、それは水の如く。
ただ人に流されるのではなく、流れの中に身を委ねて、流れの一つとなるように。


目標を立て、行動し、判断し、対応し、その繰り返し。
基本の基本は、とても簡単なことなのに、しかし難しいこと。
だから、小さなことから、この基本を成り立たせていこうと思う。

まずは一つ。
一日一文、自分の考えをこのブログに投じる。
それを目標として立てる。

そしてもう一つ。
一ヶ月で体重を2kg落とす。食った分だけ身体を鍛える。

小さなことだけれど、そこから行ってみよう。
目標を立て、行動し、判断し、対応する。
それを実践してみせる。

08 , 27
自分メモ。

朝の連ドラ、今期あまり面白くないものの、
だらだら見てていい台詞あったので抜粋。

『信じて待つ……それが愛ってもんじゃねえか』

西條秀樹さんの演じる悪っぽい社長の台詞。
惚れた……格好いい。



かつて判っていたはずなのに、どうして判らなくなるのかと。
木々は時を経るだけ年輪を重ねていくはずなのに、
どうして自分は、年を経るだけ忘れていくことばかりなんだろう。

それはつまり、上へ伸びようとしていなかったからだなあと痛感する。
自分から根を伸ばすことも、葉を伸ばすことも、光を浴びることもしなかったから、
とどのつまり、日陰で成長を止めてしまっていたのだなあ、と。
それだけのこと。

日を浴びよう。目いっぱいの光を。
水を求めよう。乾いた知識を潤す水を。
そして、大地に根を張ろう。自分の居場所を、きちんと捕まえよう。

秋は実り。
次の季節に備えて、実を成して、種を次に残す季節。
自分というものがここで途絶えることを考えたら、もっと必死にならないといけない。
歌や声という才能に甘えて、そこから先に進むのを辞めた自分が情けない。
慢心し、停滞した自分を殴り飛ばさなければいけない。

だから。
蓄えるだけ蓄えた無駄の塊を、吐き出していこう。
もっと頭も心も身体もスリムにならなきゃ。

08 , 27
インターネットが世に出回って、オンラインゲームが蔓延するようになり、
SNSなどのコミュニティサイトが社会を席巻するようになった昨今、
インターネット上における仮の自分「アバター」は、
意図しないうちに、その社会的地位を確立していた。
本来はゲームをしたり、オンラインコミュニティでの擬似体験をするための、
仮想のキャラクターのはずだったのだが、
その様相は、次第に現実的な侵食を始めていて、
現在、「アバター」は、本来の自分から乖離した、もう一人の自分を形成し始めている。
(と勝手に思い込んでいる)

というのも、自分の体験的な部分が大きい。
某動画で活動していた中で感じたことなのだけれども、
「やっているのは俺なのに、俺じゃない誰かを見られている」
という違和感が常々あった。
評価が良くなれば良くなるほどにその違和感は激増し、
最終的には、お前誰なんだよ、と思わざるを得なくなってしまっていた。

投稿者として活動する中でも、それなりに自己表現はしてきたつもりだった。
本来の自分とネット上の自分に差異がなるべく生じないようにしてきたはずだった。
しかし、長く続ければ続けるだけそんな甘いことは言ってられなくなり、
初見の思い込みが激しければ激しいほど、ベースの人格が無視されるようになっていた。
視聴者的に都合のいいビジョンを勝手に押し付けられるようになり、
その都合の良さに便乗していなければ逆に押し込められるような圧迫感があり、
何で自分、こんなことしているんだろう、という疑念が日に日に生じるようになっていた。

文章においては、作者と主人公とは乖離していて当然のものだ。
歌においても、歌詞の中の主人公と歌手とは合致しないものだし、
演技においても、舞台の中の主人公と役者は合致するはずのないものだ。
しかし、ネット上におけるアバターと、それが演じるキャラクターや歌い手は、
ちょうど微妙な点で密接に関わってしまっていて、
そう、初音ミクが仮初の人権を獲得したのと同じように、
HNや投稿者名が得たアバターは、仮想のキャラを視聴者が色づけして、
自分たちに都合のいいイメージをそこに与えることで認知されているわけで、
それはつまり、「本来の自分≠アバター」という不具合を生じさせることになる。

イメージが大切なんだ、と芸能活動では当たり前のように言われる。
アイドルを売っているのはその娘自身の素質ではなく、
その子を取り巻くイメージ、空気、雰囲気、印象、そういうもので売っている。
レッテルと思い込みで顧客の心を掴み、そこでようやく売り物になっているのだ。

が、同様のことが一般市民の中で行われるようになってしまった昨今、
自分とアバターの乖離症状に苦しむ人はかなり居るんじゃないかと思ってしまう。
なぜなら、アバターというのは「理想の自分」の姿だからだ。
オンラインゲーム上でレベル100を超える最強のキャラの持ち主が、
現実では引きこもりのネトゲヲタで、友人もいないというのはよくある話で、
オンライン上でのコミュニティ上で自己実現を果たしすぎている人ほど、
理想の自分と現実の自分の乖離が激しく進んでいるように思うのだ。
(自分含む)

怖いのは、それが乖離ではなく、分離してしまった瞬間だ。
理想の自分はネットの中にあり、現実の自分はその外側にいる、と思ってしまうこと。
理想と現実が、若干のズレで収まっているうちは可愛いのだ。
しかし、理想と現実が完全に食い違ってしまった場合、それは恐怖へと転化する。
理想の自分が望まれれば望まれるだけ、現実の自分を追い込んでしまう。

考えるのは自分。実際に頑張るのも自分。
しかし、結果を受け取るのは、自分ではない、もう一人の自分。
本来、客引きのために置いていたクマのぬいぐるみが持て囃されて、
頑張っている自分の方を向いてくれない、そんな錯覚。
良い自分を見せようとすればするほどに、その錯覚は強まっていく。

それは要するに、
良い自分(理想の自分)と悪い自分(現実の自分)が合致していないためなのだ。
良いも悪いもなく、自分が自分だと判っている人にこの症状は起きない。

http://homepage2.nifty.com/seisan/tomatotomeron.html
あいだみつをの詩で、トマトとメロン。
この詩で言う所のトマトとメロンは、環境の貧富を訴えているように思うのだけど、
現実と理想という風に捉えることも出来る。

何が悪いって、本来トマトである自分をメロンでパッケージングしてしまうことだ。
見栄え良く、それっぽくして、トマトなのにメロンで売ってしまうことだ。
普通なら、出来るはずもないのだが。

しかし、たまたまそれが売れてしまうのが、ネットという世界なのだ。
「現物を見ずにモノが買える」
そのいい加減な部分でやり取りをしてしまうから、
トマトなのにメロンだ、なんていうハリボテを許してしまえるわけである。

話を戻そう。
本当に怖いのは、それが無自覚だということ。
アバターを綺麗に可愛くコーディネイトしていることが、
気がつけば、自分とは別の自分を形成していることだとわからないということ。
つまり、鏡を見ることを忘れてしまうこと。
自分をメロンだと思いこんでしまって、トマトの自分を受け入れられなくなること。

だから、そこで変なギャップが生まれてしまう。
出来るはずもないのに出来ると思い込んだり、
格好悪いのに格好いいと思い込んだり、
本来自分では持っていないはずのものを、持っているような気がしたり、
とにかく、ひどい。
評価を受けているのはあくまでアバターなのであって、
それをパソコンの外側に持ち出せないのだということを、
全く理解できないまま、苦しんでしまう。

ゲームならね、マシなんだけど。
創作活動っていう、なまじ自己表現が被る部分でそれがあると、
「アバター=自分」って思ってしまうのも無理がないと思う。
しかし、現実は「アバター≠自分」。
どんなに良い評価を受けたとしても、それはアバターのもの。
理想の身体を手に入れた、電子上の自分の姿でしかない。

何だかんだと十年以上もパソコンに触れていると、
その錯覚に対して鈍化してしまうのが避けられない。
もしかすると、若い子の方がこの強烈な違和感に適合しているのかも。
自分を綺麗に使い分けれる子の方が、きっとマシなんだろう。

しかしオッサンになったなあ、と鏡を見るたび思う。
まあ、これも現実。
そのみすぼらしさを受け入れて、自分を考え直していこう。
どれだけいい魔法を掛けたとしても、カボチャの馬車は元々カボチャ。
シンデレラは灰かぶりの娘に過ぎない。
灰かぶり娘の美しさは、その心の有り様だったのだから、
それをきちんと思い出せるよう、努力していこう。

08 , 25
どうして俺は同じ過ちを何度も繰り返してしまうのだろう。
その度に後悔して、俯いて、自分なりに反省して、それを正しいと飲み込んで、
結局また、同じ失敗を繰り返していたのでは、一体何様だというんだろう。
学習能力がどれだけ低いのか、痛感する。

そういえば、子供の頃から反復学習をしてようやくモノを覚えていたのを思い出す。
物覚えは元々そんなに良くなかったんだった。
そして、新しいものを得ることが極端に苦手だという性質。
雑誌やテレビ情報なんて無論のこと、好きなマンガやアニメでさえ、
年を取れば取るほどに、新しいものを受け入れるまでずいぶん時間が掛かるようになった。
思えば昔、子供だった頃は同じ本を何度も読み返したり、
同じゲームを何度もやり直したり、そうやってループの中にいるのを楽しんでいたっけ。
今でも、やっぱりそのままなんだろう。
新しいもの――正確には、変化をするのが、すごく苦手だ。

好きなものがあれば、そこに対しては遠慮も何もなく、お金を投じる。
それが普通の人の考え方なのだと思う。
好きなものでなくてもいい。必要なもの、共有したいもの。何でもいい。
とにかく、得たいと思ったものなら、すぐにお金を投じるのが世の常だ。
本でも、服でも、食べ物でも、ゲームでも、インテリアでも、アクセサリでも、
欲しいというものに我慢なんていらないし、素直に受け入れればいい。

だっていうのに、どうしてか俺はその術に苦手意識を抱いている。
新しいものを得ることが苦手。
こんな根本的な欠陥に気付いたのが、つい先日だというのはどうかしている。
一体、どれだけ自分を知らずに来たのか、ほとほと呆れる。

昔から、欲しがらない方だった。
兄が金遣いの荒い方だったせいもあり、
幼馴染が露骨にブルジョワ自慢をするせいだったせいもあり、
幼少期からの人格形成に、卑屈で貧乏性で意地汚いものが作られたのは、
そういう影響も少なからずあるのではないかと想定してみる。
今でもブランド物には興味がないし、高額の支出は苦手だ。

それはつまり、「得る」ということに興味がないからなのだろうか。
「与えられる」ということに慣れすぎているせい?
「ない」ということの苦しさをほとんど知らずに生きてきたからなのか。
「得る」という喜びを、自分から取りにいこうとしていない自分を発見する。

オスが狩りを生業とし、そこに本能的な興奮を覚える生き物なのだとすれば、
俺は果たして、その野性の舞台に立っているかと言えば、否。
その本来あるべき土俵の外をうろうろ回って、
漁夫の利や、労せず手に入る獲物を狙っているハイエナに過ぎない。
狩りは争い、奪い、倒して得るもの。
俺の立ち位置は、浅ましい。

戦うということは、傷つくということだし、痛いということだし、怖いということだ。
それを堪えて、必死になって得るからこそ、ものには価値が生まれる。
現実的に考えても、時間的に長く働いている人間の方が金を得ている。
それが当然の社会の理。
傷つくことを避け、争いを避け、痛みを避け、恐れを避け、
格好悪い自分を見ないようにして、今ここにある自分が一番みっともない。
当たり前のように戦っている友人たちと、肩を並べられるわけもないし、
同等の言葉を吐いているなんて、実に浅ましい。
上辺だけの人間なんだと、ひどく痛感する。

狩りは争いであって、懇願ではない。
与えて貰うなんて甘っちょろいものではないんだと、何で今気付いた?
どれだけ自分が甘っちょろく生きているのか、本当に情けない。

知識も、知恵も、体力も、技術も、財産も、食事も、生活も、愛も、夢も、
全て、奪うように求めて、手に入れるべきなんじゃないのか。
生っちょろく与えられるのを待っているバカ野郎に、手に入るわけがないだろうと。

いつかチャンスが来る、と思っていいのは、
自分からチャンスを掴みにいっている人間だけ。
何もせず寝転がっているだけの人間に、チャンスは訪れない。
そう。
昔から神様の言い伝えだ。
「神は自ら救いを求める者のみを救う」

知恵を求めよう。
体力も。財産も。勇気も。希望も。
全て、奪い取るように獲得していこう。
人を真似て、人から奪って、模倣して、齧り付いて、その全てを食らい尽くすように。
得ようと思わなければ何も得られない。
貪欲に、貪欲に、貪欲に、貪欲に。
今の自分でいいや、なんて思わずに、もっともっと欲張っていこう。
「I Want」
今年、残り四ヶ月のテーマはこれにしよう。

……にしたって、狼と香辛料は出来すぎじゃないか。
無様な自分とロレンス、気丈な君とホロがよく被るよ。
アニメ版、本当に面白いから、ぜひ。

08 , 24
久しぶりに夜道を歩いてみた。
眼鏡を外して。

それだけで当たり前の世界は当たり前じゃなくなって、
見えていたものが全く見えなくなって、見えるはずのないものが見えた。
こんなにも世界は不安定で、不確定で、
そして、俺はこんなにも弱っちくて頼りないものなんだと、
眼鏡を外しただけで、まるで見えるものが違った。

無自覚が一番怖い。
色んなものに頼り切って生きているのに、
その恩恵を知らずに、のうのうとこの身体は生きている。
ありがたみ、尊さ、大切さ。
そういうのを感じずに生きている鈍感なこの身体を、俺は恥じる。

だって、眼鏡を外したら本当に何も見えない。
周囲360度すべてがモザイク模様で覆われてしまって、
ぼうと光る街灯や、正面から来る車のライトは、
さながら化け物がそこにいるように感じるくらいなのだから。

当たり前のことだと思っている全てが、ありがたい存在なんだって、今更思い出す。
そんなにも鈍感で、愚直に凝り固まっていたこの「目」を、俺は許せない。
もっと早く気付いていたら、もっと早く心を正していたら。

……だから、きちんとしよう。
まず自分のものだと思い込んでいる「もの」を確かめなおそう。
本当にそれが自分のものになっていたのか、考え直そう。
知識、技術、能力、所有物、交友関係、過去、財産、etc.
勝手に自分のものだと思いこんで、勝手に色づけしていないかと。
本当に「自分のもの」だと言えるのなら、
そこに自分の決断と選択と明確な意思があるはずだから。
「何となく」はダメだ。「なあなあ」もダメ。
自分の意思で決めて、自分で考えないと。

ここで吐き出す言葉に対しても、全て「自分のもの」だっていう責任を持とう。
無責任に上から目線で批判するような、そんな自分ももういらない。
こんな自分に誰かを批判したり、否定したりする権利はないのだから。
ただ、明確に。
明確に、自分の気持ちや意思や選択を伝えられるようになりたい。
それだけがきちんと出来るようでありたい。



そういえば日曜日は選挙だった。
国の先行きを決めることさえ曖昧ではいけない。
なので、明確にしておこう。

『民主党を見ていると、この腐った自分みたいに、軸がブレていて腹が立つ。
 都合のいい未来を安売りして、自分の為に人を利用する。
 そんなことを無自覚にやってきた自分が大嫌いだから、絶対に民主党には入れない』

08 , 23
知らなかった。
わからなかった。
正確には、見ないようにしていた。

自分の弱さ。自分の中身。自分。それ自体。

目をそらしていたのは、誰でもない。
自分から目をそらしていた。……そういうこと。

誰の目も見れない。
自分の目を見ることすら避けているんだから。
鏡に映る自分の顔が嫌い。
こんな情けない存在がそこにいることが耐えられない。

知らなかった。気付かなかった。
正確には、気付かないようにしていた。
自分が、こんなにも弱くて情けなくて恥ずかしい存在だってことを。
知ってしまったら、気付いてしまったら、もう、立ち直れない気がしていたから。

でも、もう戻れない。
自分がどれだけ弱くて最低な人間なのか、証明してしまったから。

ごめんね。本当にごめん。
知らなかったんだ。わからなかったんだ。
自分がこんなに格好悪くて情けないものだって、自分でもわからなかったんだ。
自惚れていて、甘えていて、都合いいことばかり考えて、悪いことを考えないで、
現実を遠ざけて、都合の悪い自分を全部放り出して、ないことにして、
そうして、ようやく自分を保っていたんだってことを……言えなかった。

壊れていくのが怖かった。
ハリボテの自分が露呈していくのが怖かった。
中身のない薄っぺら、外見さえ保てないへっぽこ。
最初からバレているのに、それでも見栄を張って、ごまかして……。

嫌われたくなかったんだ。
ちょっとでもいい自分を見せて、ちょっとでもマシに見せたくて、
少しでもペースあわせなくちゃ、って思って頑張ろうとして、
でも、少しずつ歯車合わせられなくなってて、怖くなって……。

不満を言ったら嫌われる気がして、何も言えなくて、
だったら、明るく振舞えればいいのに、笑顔も作れなくて、
ちょっとずつ心が何も見ないようになってて、現実逃避してて、
気がついたら、好きなものとか、楽しいものとか、わからなくなってて、
ただ、「今」が壊れていくのが、この「八月」が壊れるのが怖くて、
……目を閉じてしまった。

怖かった。
理由もない、些細な変化さえ怖くなってた。
壊れるんじゃないか、壊れるんじゃないか、
そう思っていたら、本当に壊れてしまって、
壊したくないのに、壊してしまって、
そんなの、俺がただ、壊れていく想像を止めなかったからで、
自分の悪いイメージとか、悲観とか、不幸とか、
それを全て断ち切っていたら、もっと前向きだったら、
こんなことには、ならなかったのに……。

……それでも、まだ目を開けるのが怖い。
逃げる場所なんてもうどこにもないのに、
それでもまだ目を閉じてどこかに逃げようとしている。

ああ。
でも、もうこんな弱音を吐くのも最後にしよう。
吐けば吐くだけ、自分が弱くなっていくから。
せめて、言葉の上だけでも、シャキっとしていないと。
でないと、もう、顔向けも出来ない。

……ごめんね。本当にごめんね。

いつか、自分のことを誇れるようになったら、
一緒に空を眺めて、ただ、そうやって過ごしたい。
もう……多くは望みません。
こんなゴミ屑の願いを叶えてくれた君に、心からありがとうを。

……また、いつか、必ず。
ううん。

いつでもいいから……。
いつでもいいから、呼んで下さい。
空を一緒に見るくらいしか、俺には出来ないけれど、
それしか出来ないけど、それで君がちょっとでも助かるなら、
どうか、呼んで下さい。
いつものクッキーを用意して、君を迎えるから。

08 , 05
昔、犬を飼ってたことがある。
母の勤めてた病院の側のドラッグストアに捨てられていた柴系の雑種の子で、
割と体の小さめなメスのわんこだった。
その時点でその子は3歳くらいで、よく吼えたし、よく食べた。
野良の子だったからだろうか、脱走もしたし、一回噛まれたこともある。
けど、すごく懐いてくれて、いっぱい撫でたし、抱っこもさせてくれた。

その子が死んだ時、僕は小学五年生で、
初めて命が失われるものだってことを理解した。
裏の畑に撒いていた農薬を齧ったのが原因だったらしく、
動物病院に運んで、手術台の上に乗せられた彼女は、
身悶えて暴れて、口から泡を吹きながら死んでいった。
今でも、死骸というのがああいう風に硬直して、剥製みたいになるんだということを覚えている。

悲しかった。
神様は不平等で、残酷なんだとひたすら呪った。
父の実家の裏山に埋めてきたけれど、あの子は今もあそこに眠っているだろうか。


そんなことを、NHKの動物保護特集を見ていて思いだした。
近年、日本におけるペットの価値は恐ろしいほどに急落を始めている。
原因は大量生産と、そして大量販売。
専門外の業者が子犬や子猫を育成し、ひたすら増やしてはペットショップに売り飛ばす。
子犬・子猫のケアなどまるで無視している悪質な業者が、近年急増しているという。
番組内でインタビューを受けていた元業者だという男は、
「(母犬は)子犬を生産するための機械ですよ」
と平然と口にした。

日本のペットショップでの子犬・子猫の販売は、60日以内が限度だという。
それ以上は成長しすぎて売値が急落し、売り物にならないのだと聞く。
本来であれば十万~十五万の子が、三ヶ月目に入るとその半額になる。
エサ代などの飼育費に予防接種の値段を考えれば、
五万円程度では元手を取れなくなることは容易に想像できる。

では、その売れ残りの子は何処へ行くのだろう?
あるいは、ペットショップですら買い取ってくれないような子はどうなるのだろう。

結論。

廃棄。

ペットとして誰かに買われることもなく、業者の手元に残った子は、
全て保健所に持ち込まれて、ガス室で処分されるのだという。
中には母体として保護されて、子犬を生ませるために利用されるケースもあるだろうが、
生育環境が悪かったり、病気になってしまったりしたのなら、全て処理施設行きなわけだ。

全て、人間のエゴである。
食べるわけでもなく、大事に育てるわけでもなく、
都合のいいように交配をさせられ、都合のいいように売り飛ばされ、
そして都合のいいように捨てられる。
子犬を生産する業者も、子犬を販売する業者も、そして子犬を買い取った飼い主も、
皆、都合が悪くなれば保健所に持ち込んで処分して欲しいと申し出る。
そう。
まるでリセットボタンを押すみたいに、気軽に捨てていくのだ。

保健所でガスを浴びて殺される子はまだいいのかも知れない。
生産業者が経営難に陥って、「工場」から失踪したケースも映像にあったが、
ノミやダニ、ウジ、ハエなどが大量に発生した不衛生な環境で、
一頭一頭が衰弱死して、その腐乱した死骸に囲まれて、
エサも与えられず、檻の中に閉じ込められたままの、そんな連中もいるのだ。
中には共食いして死んでいったものもいるかも知れない。

全て人間のエゴだ。
戦争の残虐性を訴え、ヒロシマ・ナガサキの悲惨さを訴える反面で、
ペット(人間が食べないけれど、愛玩する動物として定義)に対しては、この残虐性だ。
ヒトでなければ、こんな仕打ちを許していいのだろうか?
ヒトでなければ、安値で売り買いして、安値だからと安易に捨てていいのだろうか?


逆に、ペットに衣服を着せて、まるで子供のように扱うケースもあれはあれでおかしい。
可愛いのもわかるし、大事にしたいのもわかるのだけれど、
それをスタンダードだと思っている飼い主が増えていることが怖い。
大事に扱っているうちはいいのだが、
まるで「お人形さん」のように可愛がっていることが僕には怖いのだ。


例として書いてみる。

小学生の娘が、ペットが欲しいの、と言ったから、
お父さんは奮発して、ペットショップでチワワの子を買って来た。
初めの一年は可愛い可愛いと四六時中一緒に遊んでいた娘も、
二年目になると、最近発売したゲームの方に夢中になってしまい、
散歩も気がつけばお父さんの仕事で、お父さんもお父さんで面倒くさくなってきた。
そして、家族旅行に行こう、と言った時に、チワワの子をどうしよう、という話になる。
最近ではペットホテルという便利な施設もあるわけだが、
旅行に行く旅に預けるだけのお金が掛かり、一家の財政も決して楽ではなくなってきた。

そして近年の不景気・経営難でお父さんの給料が減った。
娘も中学に入る頃になり、お小遣いの額が増えた。
チワワの子も年を取るとだんだん可愛くなくなり、
お母さんがダイエットのついでに仕方なく散歩をしているという程度。
旅行に出かけようという度にペットのことで揉める。
あまり遠くへは旅行に行けない、この子がいるから、とお母さんが言うと、
娘がかんしゃくを起こして、何で何で、と騒ぐので、
「そんなに言うなら、アンタのお小遣いからホテル代出しなさい」
と言えば、余計に腹を立てて、反発する。
気がつけば、我が家で一番のアイドルは、一家で一番の邪魔者だ。


子供のうちはどんな動物だって可愛くて当たり前。
ペットショップのショーウインドウで飾られているのは、一番可愛い瞬間なのだ。
粗相をしても店員さんの方できちんと片付けてくれるし、エサだって健康重視にされている。
それが、一度家に着いてしまえば、全て自分の責任なのだ。
可愛くするのも、可愛くなくするのも、全て自分たちの責任だ。

ペットに対して、日本人は溺愛をするか煩雑に扱うか、両極端になってきている。
「家畜」としての感覚が次第に薄れてきているのは確かだと思う。
かつて、犬は防犯対策として、猫はネズミ捕りとして仕事を与えられて、
それゆえの「家畜」だったのだが、今ではただの愛玩動物だ。
余計に感情を持つゆえに苛立たしく思うこともあるし、極端に泣いてしまうことがある。
もっと自然に、優しく、けれど割合ドライな付き合い方でいいんじゃないだろうか。

それこそ、家族と思うくらいというのは、
そこまでベタベタにくっついていたりするものでもなく、
極端に煩わしく思ったりするものでもない。
居ないと心配になり、けれど居て特別に高揚するものでもなく、
そういう、空気に近い大切さを感じるものとして扱うのが、ペットに対するマナーのように思う。

インターネットオークションで、1円から売り飛ばされる子犬が後を絶たないらしい。
そんな風に、 まるで奴隷のように売られていく彼らの姿を見たら、
今の日本人のモラルが如何に低く浅ましいものなのか象徴しているように思えた。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。