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閉鎖した世界。
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11 , 05
話題のベヨネッタってなんぞ、と思って調べてみたら



これはひどい。

まさかのセクシーコマンドー。
クリンナップ、クリンミセス!
ツッコミ所しかないという恐怖に思わず無言で眺めてしまった。

映像だけでもひどいんだけど、wikipediaによれば、

ベヨネッタ(Bayonetta)
記憶を失った魔女。両手両足に装備した四丁一組の銃「スカボロウ フェア[7]」を駆使した格闘術「バレットアーツ」の使い手。


ガン=カタ……!



銃剣を意味する【Bayonet】だってのは解ってるとしても、どうみてもガン=カタです。

そしてヤンマーニとは何か違いすぎるオサレベクトル。

スタイリッシュ痴女ってタグは誰が考えたんだ。

天才……いや、変態だな!

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11 , 04
4ヶ月も経って、ようやく過去に向き直ることが出来た。
マクロスE第5話。
ずっと見ないままに封印してきた「水道水」という過去だ。
既に、別の自分としてそこにいる「彼」は、
やはり人から賞賛されるようなことをしている、と客観的に見ることが出来た。
確かにあの芸は、なかなかのものだろう。

同時に、それを作り上げてきた人達の労の重さに苦しくなる。
「水道水」はどれだけ楽をしてきたんだろうと。
ステージで浮かれるだけの自惚れ屋が彼の本性だ。
人に土台を用意して貰わなければ何も出来ない、そんな道化が彼の本質だ。
歌ってみたも、アフレコも、決して彼が自分で生み出したものじゃない。
誰かが用意した基盤の上で、そこそこのスコアを出したに過ぎないのだ。

それは「ゲーム」をしているのと同じ感覚。
「彼」はゲームをする側ではあっても、ゲームを作る側ではなかった。
人を楽しませる側の人間は、どれだけ不恰好でも、自分でゲームを用意している。
それが1次創作、クリエイターやパフォーマーという生き方だ。

所詮彼のは二次創作、三次創作に過ぎないパクリ物だ。
出来の悪い一番茶を、小細工した二番煎じで唸らせるという卑怯な技でしかない。
トリックさえ解ってしまえば、実に中身のない大したことのないものだとバレる。
それが怖くて、それが露呈するのが怖くて、僕は逃げ出した。


それから4ヶ月。
「彼」のスキルだった二次創作を手放したら、ろくなことが出来なくなっていた。
一次創作としてのノウハウはすっかり抜け落ちていて、何の為に大学に通ったのかも忘れている。
習った手ほどきがゼロに戻っている感触。
嫌な汗と嫌な思考ノイズが感覚器を満たしていて、
「出来ない」という言葉が自分の行動力を麻痺させる原因になっている。

「出来ない」という言葉が脳を支配している限り、何も出来るはずがない。
自己否定の暗示は、確実に自分を呪うものだから。
プラスの作業工程に至らなければ、と足掻くこと数度。しかし足元が泥沼だ。
気がつけば生活リズムがマイナスループの中に落ち窪んでいて、
一年前の殺伐としていた時期を髣髴とさせる。

かつて、その環を断ち切ってきたものは何だったろうか。
誰かの助言(ことば)? 誰かの約束? 誰かの願い?
それもある。
しかし、乗り越えるのはやはり自分自身だった。
足を踏み出すのは、やはり自分でしかなかった。

だから、第五話を見るに至ったのだろう。
「水道水」という大きな壁を、どうにか乗り越えたいと思ったから。
自分が一年を掛けて手に入れたおかしな名声を、乗り越えたいとそう思ったから。
あの場所にしがみついている限り、僕は「水道水」未満の存在にしかなれない。
肥大化して衰えていくニコニコと共に、「彼」は過去の遺産となり、
僕は「水道水」の搾り粕にしかなれないのだと理解する。

そうでなく、きちんと正しくやっていくためには、
「水道水」以上のものにならなければならないわけだ。
誰かの生産物によりすがってしか生きられない「彼」ではなく、
自分の持ち物で勝負できる、本当の意味での芸達者になるために。

恐らく、かつてニコニコのエンターテイナーと呼ばれた人の多くが、
僕と同じ、この壁にぶち当たっていることだろう。
だから今、ニコニコという舞台そのものが低迷している。
「過去の遺物」を乗り越えられない鬱屈感に押しつぶされて。

積み重ねられていく歴史を、未来が乗り越えられないという不遇。
昭和がよかったといわれるような、ユートピア回帰の思考回路にノーを出したい。
人は過去を、歴史を踏襲して、語り継ぎながら乗り越えていかなくてはいけない。
いつまでも過去の栄華に囚われていては、どこまでも道は後ろ向きだ。

前を向け、と過去の自分が記録している。
前へ進め、と過去の自分が提唱している。
今の自分は、その過去以下なのだと痛感する。

ならば。
前へ進め、かつてより2歩以上。
それが自分の本来あるべきあり方だ。
超えられない自分などなく、塗り替えてこその人生だ。
古き栄華に宣戦布告。
これより先、自分は自分を打倒するものとする。

11 , 02
大体人間、支離滅裂というか、上手く伝わらんことしか出来んもんだなあと。
自分が面白い、と思ってるだけじゃやっぱだめだー。
地図書け、地図。
しばらく筆を取らんでいると、作業のノウハウを思い出すだけで一苦労。

英雄伝説はようやく完食。
なんとまあ、長いこと長いこと。
予想の120時間を遥かに超過して150時間くらいの長さだったという。
The3rdは外伝的な何かだったので、やるのはSCまででいいなーとも思う。
ただし、空の軌跡という世界が大好きになりすぎて、思わず掌編とか書きたくなるくらいになると、
The3rdをやらずにはいられなくなるという、何とも罠すぎるシステム。
くそう、マジでこの世界素敵すぎる。

良くも悪くも、超大作と言うに相応しい作品だった。
2004年にシリーズスタートし、The3rdが2007発売という部分も考慮すると、
大作主義時代の最終地点と言える作品かも知れない。
The3rd発売以降の2008~現在に入ると、次第にゲームは単純化、縮小傾向にあり、
大艦巨砲主義は徐々に受け容れられなくなってきていることがわかる。

まあ、動画ブームがきたり、オンライゲーム市場が当然となっていたり、
携帯社会が拡大してきたり、iPhoneが市場拡大したりと、
大容量ゲーム(つまり、時間やたら食う超大作)が不利になるのは仕方ない。
通常の日本人の場合、娯楽に取れる時間が減ってきていることは確かなのだし、
大作を最後まで堪能してくれる一部の暇人というのは、大体が収入の少ない層に当たる。
ゲーム業界全体が低迷する中、収入率の高い層を狙ったものづくりに走るのは当然だろう。

そういう点で、制作の方針を転換しないファルコムは偉いと思う。
一般人(笑)に媚びまくって、映像にしか金を掛けないFFや、
全世代向けを意識するせいで、世界概要や物語の規模を広げられないDQ、
シリーズの定期量産化しか考えずに劣化コピーを続けるテイルズなどと違い、
ファルコムは一貫して、自分たちの作る世界に対して責任を持ってきた。
イースシリーズも英雄伝説シリーズも、PCE時代から続いている古い作品なのに、
2009年現在でも、そのコンセプトは捩れることなく、世に送り出され続けている。

つーか、イースシリーズに至っては、Ⅰ発売の1987から20年以上が経過しているのに、
第7作目において、未だに赤毛の主人公アドル・クリスティンが23歳とか。
ゲーム一作につき1歳しか年を取らず、毎年、世界規模の異変に携わる化け物である。
ファルコムの、世界やキャラに対する責任実行力はマジで異常。

むしろそのくらいの責任力を果たすのが大手メーカーの義務だと思うんだけどなあ。
毎回キャラや世界を使い捨てにして歩くのは得策じゃないと最近思う。
物語や世界も、きちんと消費、きちんとリサイクルする時代。
じゃないと生産ロスが大量に生まれて、無駄に捨てるだけになってしまう。
なるほど、自分で言っててそりゃいい発想だなーと思う。
大事にしてみるか、よし。

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