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閉鎖した世界。
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07 , 11
「境界線上のホライゾン2(下)」を読了。
感想とかを述べると墓穴を掘りそうなので、テーマになっている「強欲」についてのみ抜粋。

本作では宗教上の「七つの大罪」を基点として、
人が成長する過程だとか強さだとか世界の発展だとかを語ってるわけなのだけど、
そのうちの「強欲」についての話が今回の主題。

ちなみに七つの大罪ってのは、

傲慢 (superbia)〔Pride プライド〕 〈Lucifer〉
嫉妬 (invidia)〔Envy エンヴィー〕 〈Leviathan〉
憤怒 (ira)〔Wrath ラース〕 〈Satan〉
怠惰 (acedia)〔Sloth スロウス〕 〈Belphegor〉
強欲 (avaritia)〔Greed グリード〕 〈Mammon〉
暴食 (gula)〔Gluttony グラトニー〕 〈Beelzebub〉
色欲 (luxuria)〔Lust ラスト〕 〈Asmodeus〉
       [wikipedia抜粋]

のことで、キリスト教的な解釈部分。始祖はもっと古いとこにあるらしいけど。

宗教的に、上記七つは罪だと言う。
そのいずれもを節制しなくては、人が魔(獣)に堕ちてしまう、
というようなブレーキを宗教的に(社会的に)は掛けているのであるが、
本作ではむしろ、そのタガを外してしまえよ的なメッセージを送っている。

なぜか?

他六つについては、とりあえず保留掛けておくとして、
「強欲」についてのみ考えていくと、
「欲する」という感情は、人間が生きる上で決して欠かしてはならないものだからだ。

それは特に、当たり前に当たり前として豊かさが溢れている現代においては特にだ。
電気があり、水道があり、少しあるけばコンビニがあり、娯楽や享楽にも事欠かさない、
そんな現代だからこそ、「望まない」という病に掛かる人も多いのではないかと思う。
事実、俺自身もその典型例に当てはまるのだから。

満足や充実という感覚は、人から「欲望」という野性を奪い去ってしまう。
美味しいものが食べたい、立派になりたい、お金が欲しい、オシャレがしたい、
いい女と寝たい、デカい家に住みたい、自分の土地が欲しい、むしろ国が、世界が欲しい。
そういう欲はあって当然、むしろない方がおかしいのだが、
「世界が欲しい」と思うほどの欲、そう滅多にあるものでもない。

人の欲には限りがない、と昔の偉い人はのたまったものだけれど、
確かにそのとおりの部分と、悲しいけれど逆な部分もある。
人はどこかで望むのを辞めてしまう。
これでもう満足、あとはいいよ、あと何もしなくてもいい。
そう思ってしまう、抑制機構というか、安全装置が必ずある。

そこで、だ。
先日読んだ「一瞬で自分を変える法」の帯にも書いてあるとおり、
『人は自分の望んだ分の価値しか得られない』
わけで、それには得たものを維持する分の数値設定が入っていないことがほとんどだ。
憧れのマイホームが欲しい、と思ってそれを実際得るまでのお金を貯める人は多い。
が、住居分(加えて土地分)までをローン組んで支払う算段は済んでいるかも知れないが、
十年区分での家屋、並びに内装の補修費用、固定資産税、その後の相続税など、
「維持費」としての計算値を入れて、「望んで」いる人がどれほどいるだろう?

つまり、「望み続ける」必要性がずっと続くのが普通なのだ。
生きている限り、人は何かを「望み続ける」ことで生きているのだから。
しかし、「望み続ける」というのはやはりエネルギーを費やすことになる。
目標点に辿り着くための短距離イメージとは違う。
道程で、長く長く、予期せぬだけの消耗をしていくような、そういうエネルギーを。

そのエネルギーを支えるものこそが「欲」、
それも尽きることがないほどの「強欲」という罪なのだ。
生きることの大前提を支えるほどの人の成長、進化、獲得を促す重要なファクター。

それを「罪」とするのは、果たしてなぜだろうか、と。

あちらさんの宗教では、神様絶対主義なので、その信者は「哀れな子羊」になるわけで、
それはつまり、神様的に「子羊」を統御しやすくするための文句ということになる。
いわば、宗教的な圧力、政治的な権力として、それを使った部分は、当然にある。

もちろん、人の道徳観念を統御する意味においても、必要ではある。
傲慢で嫉妬深く、 憤怒に溢れ、怠惰で、強欲にして暴食、 そして色欲に狂っていたりすれば、
人の社会においては、それを「危険」と認識して、排除せざるを得なくなるのだから。
人と和を以って暮らしていくためにも、これらを節制する必要は確かにあった。

だが、もっとも的確な答えがあるとすれば、
「貧しかったから」なのではないだろうか、と。
「強欲」を許すほどに豊かであったのならば、
社会繁栄のためにも、自己進化のためにも、もっともっと望めと言うべきなのだ。
それを促せないほどに、貧しければ、どうなるかといえば、
少ない食料を、資源を巡って争いが生まれ、殺しあわなくてはいけなくなる。
それゆえに、自然と寡欲に身分相応の望みを抱けば幸せ、という観念を生み出してきた。

あくまで、それは貧しいことが前提にある社会においてだ。
今の日本のように、全てが満たされた社会にとっては、
強欲さを失っていくことは、むしろマイナスでしかないような気がする。
戦後、日本が貧しい中でプロジェクトXを樹立させ続けた背景には、
その貧しさを覆すほどに「強欲」な人達が溢れていたからなのであって。
平和にしたい、豊かにしたい、もっといい日本にしたいという、
そういう願いが、今の日本を作ってきたのだから。

第一世代となる戦後世代が築いてきたものを、
第二世代となる自分たちの親世代が繁栄させようと努力した結果として、
第三世代には、その繁栄を支える役割と、返済不能な額の国の借金を残された。
その上、この世代は満たされることが当然になっているから、
「求める」「欲しい」「足りない」ということが体の中にわからない。
現状のままでいい、という思いを確実に抱いている。
(それが今でいう「草食系男子」とかいうものを生み出している部分に直結する)

「欲する」ということは、直接的に言えば「奪う」ということだ。
争いをして、力ずくで獲得するということになる。
望まずともそこにある今の世代にとって、争いをするという感触は、かなり薄い。
俺自身には、もっとも欠けている要素の一つで、ちょっとした病とも言える。

誰かと争わず、しかし「どうしても欲しい」。
そういう感情に溢れていくのが今の日本人のスタイル。
そんな都合のいいことがありえないのだということを、本作の作者は否定してくれるのだが、
読者たる自分としては、やはり争うことに対しての抵抗感が先に来てしまう。
意見の衝突も、誤解も、すれ違いも、やはり苦手だ。

それすらも乗り越えて、ぶつかって、獲得を望んでいくからこその「強欲」。
失うことすらも恐れない、それが争いの前提で、何かを手に入れるということの基本で、
だとすれば、

果たして、僕は何を望み、何を失う覚悟で、そして何を手に入れたいのだろうかと。
どれもこれも考えが中途半端でいけない。
まずは「何がほしいか」。
そこを明確にしなくてはいけないな、と、そう思う。
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