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閉鎖した世界。
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09 , 23
新聞を読んだらミャンマーの軍事政権についての記事があったので読んでみた。
2年前の今頃、ミャンマーでは原油高騰の不安から軍事政権への反発が高まり、
僧侶を中心とした市民数万人規模のデモが行われた。
それはデモであってテロではない。正等な政治批判活動の一環に当たる。

しかし、あくまでもデモが有効なのは民主主義国家のみで、
軍事政権下では、それは国家への反逆行為として映った様子。
ミャンマーの兵隊は相手が一般市民だろうと僧侶だろうとおかまいなしに発砲した。
民主化運動の機運が高まる時期でもあった為なのだろうけれど、
その暴虐は全世界に報じられ、日本人ジャーナリスト長井氏も、命を賭してそれを伝えた。

それから二年が過ぎた今日、ミャンマー市民の声は次のように挙げられる。

「怖い」

デモ活動に参加もしていないのに、警官隊に殴られたという男性は、
今の政治に不満も不安もあるけれど、下手なことを口にするのが怖いという。
かつての殺戮を知っていればこそ、ミャンマーで市民が普通に市民らしく振舞うことが、
いかに難しいかがよくわかるメッセージだと感じた。
彼らはその国に生まれ、その国の歪みを知りながらも、手を出すことが出来ない。

日本のマンガやゲームでは、こういう時、救国の英雄が登場するものだが、
武器を与えられず、軍部に都合の悪い情報は統制され、抗うための知恵すら奪われ、
そして、日に日にチャンスを掴むという意思を削り取られていけば、
最後には、彼ら市民のように「イヤだけど仕方ない」と言う風に言わされることになる。
なぜなら、抗えばたくさんの人が死ぬからで、そもそも抗う手段を奪われているからで。

戦前の日本でも同様の統治体制を敷いていたのだと思うと、ふと怖くなる。
徴兵され、戦地で命を落とすことが義務なのだとしてもそれを笑顔で送り出し、
反体制的な言論を行えば、小林多喜二のように拷問に処されて絶命し、
食料は枯れ、雑草の食べ方すら考えなければならなかった時代が、日本にもある。
その時、日本もまた、軍主導の政治体制を覆すことも出来ずに、無残な終戦を迎えることになった。
こんなことを言えば、非人道的だと言われそうではあるのだけれども、
確かに原爆投下によって、日本は無駄な抵抗をするのを辞めたのかも知れない。
あそこで戦意を失わなかったら、昨今のイラクのように、未だに反米感情を損なわず、
毎日、何処かでテロが行われるような、劣悪な国になっていたに違いない。

そういえば、今日は白洲次郎のドラマが最終回。
戦後の日本がアメリカに隷属せずに済んだのは、彼の手腕による所が大きいという。
「戦争で負けても、外交で勝った話はいくらでもある」
と、ダイジェストを見たら吉田茂役の人が白洲に伝えるシーンがあった。
正しくその通りだと思う。
戦争は交渉の手段に過ぎず、最も愚かな外交手段だとされる。
かつてのように、領土を広げ、人民を増やすことが利得だった時代は過ぎ去り、
今世紀はいかに主要国との貿易を結び、経済的優位を取るかが重要視されている。
逆に考えれば、領土が広ければ広いほど管理に莫大な予算が掛かり、
人民が多ければ多いほど、その福祉を充実するために莫大な予算が掛かり、
食料需要はいらないだけ無駄に求められ、雇用を創出するのも大変になる。
ついでに、人が増えすぎると意思をまとめることも難しくなる。
一つの国にありながら、民族で割れてみたり、宗教で割れてみたり、政党で割れてみたり、
平和になって人が増えれば増えるほど、国が割れるという皮肉な現実が待っている。
中国を見るとその辺はわかりやすい。
だから、ミャンマーと同じように彼らも軍を持ち出してデモを鎮圧し、
力で捻じ伏せ、歪んだ教育を施すことで、民族を単一化させることに成功している。

そうして、他所の国の事情を見れば見るほどに、
どうして日本ではデモが起こらないんだろうなあ、と不思議になる。
北朝鮮や中国、ミャンマーのように力で抑圧されるような環境ではないし、
自由な言論と団体交渉の権利が日本人には約束されているというのにも関わらずだ。
国が国たる所以は、そこに国境があって、国があるからではなく、
人が集まって、皆で何とかしようと画策して、それを主導する人がいて、
その結果、大きなものを動かすためのサイクルとして、国があるわけで。
今の日本の状態を見ると、国という単位でものを見ているようには感じられない。

この間、地元の祭りを見に行って、ふと感じた。
まだ、人が集って山車を引き、盛大に皆で盛り上がろうとする機運はあるんだなあと。
気がつけば自分は見る側にしか立っていないけれども、
やる側、発信する側だった頃もあるのだから、
もしかすると、小さなきっかけで日本は動き、変わるのかなと思って見たりもする。

ARIAの中で、アリシアさんが子供の頃なりたかった大人についてのエピソードがあった。
それは、何となく雪だるまを作っている時に、何となく手伝ってくれる大人がやってきて、
何となく協力して、何となく満足げに去っていく、そんなちょっとお節介な、大人。
ふと、思う。
今、そんな人いるだろうかと。
仕事でもないのに、そっと手を差し出せるような、そんな人いるだろうかと。

ああ、確かにそういう大人は素敵だと思う。
理想的過ぎるけれども、そういう大人は憧れる。
そういえば、うちの親父も見知らぬ子供が階段辛そうに上ってるのを見て、
「ほれほれ、頑張れ、僕」とか応援していたっけ。

簡単なことなんだけれど、つい出来ていないんだなあと思い知らされる。
人の出会いが一期一会なのだということを、つい忘れる。
無言で嫌な人として出会い、別れるのと、笑顔で良い人として出会い、別れるのでは、
その重さはずいぶんと違ってくるんじゃないかと思えた。

それが当たり前に思えるようになった時、何か変われる気がする。
人と関わることを恐れて、表情を閉じている今、
少しだけ、笑顔になりたいな、と思う。
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